卦名 名
「蒙」はもと覆う、蔽うの意で、目隠しされて見えないさまである。〈序卦伝〉は「蒙とは蒙なり、物の穉きなり」といい、穉は稚、生まれたばかりの未熟さを指す。この状態がとりわけ問題となるのは人間である。人だけが知を求めねばならず、知には正しいか否かの別があるからだ。
卦象 象


上卦は艮で山・止、下卦は坎で水・険である。山の麓に水があり、立ちのぼる水気が霧となって山裾を覆い、見通せない。これが蒙だ。〈彖伝〉は「山の下に険あり、険にして止まる」といい、険を前にどうしてよいかわからず立ち止まる姿と見る。大象は坎の水を山の下から湧く泉と見る。源は澄んでおり、導くべき時である。
取象の重なり 層
一つの卦はいくつもの層で読める。八卦は一家の人々(父母・長中少の男女)、六爻は組織の位(新人から君主まで)、さらに自然現象や動物にもなる。層を一つ重ねるごとに、爻辞の意味が深まる。
一家として見る
下卦の坎は中男、上卦の艮は少男で、二人の息子が上下に並ぶ。中男は険に陥って方向が見えず、少男は上で山のように彼を止める。これがまだ開かれず、啓発を待つ蒙の状態である。屯を逆さにすれば蒙になる。八卦のうち反転して入れ替わるのは震と艮、巽と兌だけで、兄弟や姉妹が場所を替えるようなものだ。
九二「婦を納るれば吉、子、家を克くす」。九二・六三・六四は互震で、震は長子である。二はまた大夫の位で、大夫の采邑を「家」と呼んだ。だからこの陽爻は一家を支える長子にあたる。蒙を包み、妻を迎えて家を成し、自分の領分を引き受ける。
六三「金夫を見て躬を有たず」。六三・六四・六五は互坤で、坤は母である。母が身ごもることを「身有り」といい、転じて自分自身を指す。六三は財と力のある九二を見て下へ寄り、互坤を離れてしまう。すなわち自分を失うので「躬を有たず」という。
六五「童蒙、吉」。陰爻が君位にいるのは、力の足りない幼い君主のようだ。だが中を得て柔順で、九二と正応する。上に立つ者が身を低くし、遠く下にいる剛明な大夫を信頼するので、天下全体の啓蒙が成る。
上九「蒙を撃つ」。上卦の艮は手なので、手を下して打つことができる。その下の六三・六四・六五は互坤で、坤は衆、順である。衆の支持があるので、戒めが暴力にならない。爻辞が「寇を為すに利あらず、寇を禦ぐに利し」と添えるとおり、守るためであって侵すためではない。
蒙を逆さにすると屯になる。蒙の混沌は、屯の芽生えたばかりの生命を別の角度から見たものだ。外から見れば愚かさ、内から見れば成長の途中である。これを覚えている教え手は、学ぶ者の不器用さを欠点と取り違えない。
蒙の二から四爻は震、三から五爻は坤で、合わせて地雷復となる。蒙昧の内側には「一陽来復」が潜む。ぼんやりしたなかで、分かりたいという思いが下から戻りつつある。啓蒙とは外から注ぎ込むことではなく、その一点の陽を呼び覚ますことだ。
序卦 序
物生必蒙,故受之以蒙;蒙者蒙也,物之穉也。
〈序卦伝〉に「物生ずれば必ず蒙なり、故に之を受くるに蒙を以てす。蒙とは蒙なり、物の穉きなり」とある。生まれたものは必ず蒙昧なので、屯の次に蒙が来る。社会でいえば、屯は部族ができて首長を立てる段階、蒙はその中のまだ物事のわからぬ者を、上下を問わず啓発する段階である。屯を上下逆さにすると蒙になる。
卦辞 辭
蒙:亨。匪我求童蒙,童蒙求我。初筮告,再三瀆,瀆則不告。利貞。
蒙は、亨る。我童蒙に求むるに匪ず、童蒙我に求む。初筮は告ぐ。再三すれば瀆る。瀆るれば告げず。貞しきに利し。
卦辞はいう。亨る。我れ童蒙に求むるに匪ず、童蒙我れに求む。初筮は告ぐ、再三すれば瀆る、瀆るれば告げず。貞しきに利し。「亨」とは蒙昧そのものが通じるのではなく、啓発を経て通達へ至りうるという意味である。師が弟子を追いかけるのではなく、弟子が誠を尽くして求めに来る。占筮も同じで、誠なくして占わず、同じ事を気に入る答えが出るまで問い直せば、問うこと自体の意味が失われる。
彖伝 彖
彖曰:蒙,山下有險,險而止,蒙。蒙亨,以亨行,時中也。匪我求童蒙,童蒙求我,志應也。初筮告,以剛中也。再三瀆,瀆則不告,瀆蒙也。蒙以養正,聖功也。
〈彖伝〉は「時中」によって「蒙亨」を説く。しかるべき時にしかるべきことをするのである。「志応ず」は童蒙の六五と師の九二の心が通じ合うこと、「剛中」は九二が剛にして中を得、一卦の柱であることをいう。結びの「蒙以て正を養うは、聖の功なり」は、蒙昧の時こそ正道を養う好機であり、それが聖人をつくる功業だと述べる。
大象 象
象曰:山下出泉,蒙;君子以果行育德。
「山の下に泉出づるは蒙なり、君子以て行いを果たし徳を育う」。泉は山を出たところが最も清く、下流へ行くほど濁る。教育も源で力を尽くさねばならない。「果行」とは決然とした行動である。小さな悪癖をその場で断ち、手加減も先延ばしもせず、実際の行いによって徳を育てる。
六爻 爻
主爻 主爻は九二である。〈彖伝〉の「初筮は告ぐ、剛中を以てなり」が九二を指す。陽は九二と上九のみで、実ある陽こそ師となりうる。剛中にして童蒙の六五と応じる九二が真の師である。
六爻の道筋:下から上へ
蒙の六爻は教えと学びの過程である。初六は学びの始まりで、規律を立てるべきだが、刑罰に頼りすぎてはならない。九二は学ぶ者を包み込む師であり、一家を支える長子でもある。六三は下卦の頂で、財と力のある者を見ると自分を失う。こういう者は教えられない。六四は師から遠く蒙昧に閉じ込められ、最も惜しい。六五は虚心に学ぶ童蒙で、上に立ちながら学ぼうとするので吉。上九は厳しく蒙を撃つが、それは外からの害を防ぐためであり、教育を侵害に変えてはならない。
初六發蒙,利用刑人,用說桎梏,以往吝。蒙を発く。用て人を刑し、用て桎梏を説くに利し。以て往けば吝。
現代語で
蒙を発く。刑を用いて人を正すに利しく、以て桎梏を脱せしむ。そのまま往けば吝。
精読
初六は陰が剛位にあって位を得ず、最下位にいて、同じ陰の六四とは応じない。蒙昧な民や子供であり、最初の規律を必要とする。桎梏には二重の意味がある。一つは本能や欲望による束縛、もう一つは将来罪を犯して受ける本物の枷である。小さく懲らせば大きな戒めを免れる。小象は「以て法を正すなり」という。刑は法度を正すためだが、刑だけに頼れば行き詰まり、やがては徳と礼へ移らねばならない。
この爻を得たら
今は明確な決まりと適度な抑制が必要だ。ただしそれは手段であって目的ではない。早めに道理と手本による導きへ移ること。
免れて恥なし
孔子は「之を道くに政を以てし、之を斉うるに刑を以てすれば、民免れて恥なし。之を道くに徳を以てし、之を斉うるに礼を以てすれば、恥ありて且つ格る」と言った。政令と刑罰だけでは、人は罰を逃れる術を覚えるにすぎない。徳と礼で導いてこそ羞恥心が生まれ、自ら正へ帰る。カンニングは悪いかと問われたある学生は、カンニング自体は悪くない、見つかるのが悪いのだ、これからは技術を磨く、と答えたという。啓発なき懲罰の帰結である。
九二包蒙吉,納婦吉,子克家。蒙を包ぬれば吉。婦を納るれば吉。子家を克くす。
現代語で
蒙を包む、吉。婦を納る、吉。子、家を克くす。
精読
九二は陽が柔位にあって位は正しくないが、下卦の中を得、六五と正応する。剛でありながら包容力があり、教化の任を担う。「包む」は中の爻によく現れ、中にいてこそ包み込める。「婦を納る」は上にいる六五を受け入れること。二は大夫の位で、大夫の采邑を「家」といい、九二・六三・六四は互震で長子を表すので「子、家を克くす」という。小象は「剛柔接するなり」という。剛中の師と柔順な君が結びつき、教化が行われる。
もう一層深く
九二「婦を納るれば吉、子、家を克くす」。九二・六三・六四は互震で、震は長子である。二はまた大夫の位で、大夫の采邑を「家」と呼んだ。だからこの陽爻は一家を支える長子にあたる。蒙を包み、妻を迎えて家を成し、自分の領分を引き受ける。
この爻を得たら
人を教え導く立場にある。厳しく責めるより包み込み、経験の浅い人や立場の異なる人を受け入れれば、全体を支えることができる。
伊尹、太甲を放つ
伊尹は湯王を補佐して殷(商)を建てた。湯の孫の太甲が即位して湯の法を守らなかったので、伊尹は彼を桐宮に移し、自ら政を摂った。《孟子・万章上》によれば、太甲は桐で三年を過ごして過ちを悔い、「自ら怨み自ら艾め」て善に移り、伊尹は彼を都に迎えて復位させた。臣が君を放てば簒奪を疑われかねないが、伊尹は剛中の徳をもって若い君主を包み、教え導いた。九二と六五の関係そのものである。
六三勿用取女,見金夫,不有躬,无攸利。用て女を取る勿れ。金夫を見て、躬を有たず。利しき攸无し。
現代語で
女を取るに用うるなかれ。金夫を見て躬を有たず。利ろしきところなし。
精読
六三は陰が剛位にあって位を得ず、上下卦の境にいて心が定まらない。本来の正応は上九なのに、衆望の集まる近くの九二に引かれる。九二が「金夫」である。三四五の互坤は母であり身でもある。九二へ下ってすり寄れば自らの拠り所を離れるので「躬を有たず」。しかも剛の九二の上に乗っているので、小象は「行い順ならざるなり」という。
もう一層深く
六三「金夫を見て躬を有たず」。六三・六四・六五は互坤で、坤は母である。母が身ごもることを「身有り」といい、転じて自分自身を指す。六三は財と力のある九二を見て下へ寄り、互坤を離れてしまう。すなわち自分を失うので「躬を有たず」という。
この爻を得たら
目移りし、利を見て義を忘れることを戒めよ。より有力な相手が現れたからと約束や相手を捨てれば、得に見えても自分を失う。
六四困蒙,吝。蒙に困しむ。吝。
現代語で
蒙に困しむ。吝。
精読
六四は陰が柔位にあって位は得ているが、上下とも陰で、初六とも応じず、九二・上九の二陽からも遠い。小象は「独り実に遠ざかるなり」という。実とは陽のことだ。ほかの陰はそれぞれ頼る陽を持つのに、六四だけは問うべき師も頼る人もない。蒙昧そのものより、啓発してくれる人から遠いことが問題なのである。
この爻を得たら
孤立して状況が見えていないかもしれない。独りで手探りせず、身を低くして見識ある人に自ら教えを請うこと。
六五童蒙,吉。童蒙なり。吉。
現代語で
童蒙、吉。
精読
六五は陰が尊位にあって位を得ず、地位はあるが実力がない。卦辞のいう「童蒙」である。しかし上卦の中を得て九二と正応し、若い君主が柔順の徳で剛明な賢臣を用いる姿となる。小象は「順にして以て巽なり」、すなわち謙遜して従うという。謙虚に学び、善言を喜んで聞くから吉なのだ。
もう一層深く
六五「童蒙、吉」。陰爻が君位にいるのは、力の足りない幼い君主のようだ。だが中を得て柔順で、九二と正応する。上に立つ者が身を低くし、遠く下にいる剛明な大夫を信頼するので、天下全体の啓蒙が成る。
この爻を得たら
自らの未熟を認めるのは恥ではない。謙虚に学ぶ姿勢で、本当にわかっている人を信じて従えば、うまく運ぶ。
楽正子、善を好む
魯が孟子の弟子楽正子に政をとらせようとしたとき、孟子は喜びのあまり眠れなかった。公孫丑が、楽正子は剛強か、知慮はあるか、多聞博識かと問うと、孟子はいずれも否と答えた。ではなぜ喜ぶのか。孟子は「其の人と為りや善を好む」と言い、「善を好むは天下に優る」と続けた。善言を好めば、見識ある人が千里を遠しとせず告げに来る。地位が高く力量が未だ備わらぬ者も、虚心に善を好めば事をなしうる。
上九擊蒙,不利為寇,利禦寇。蒙を撃つ。寇を為すに利しからず、寇を禦ぐに利し。
現代語で
蒙を撃つ。寇を為すに利しからず、寇を禦ぐに利し。
精読
上九は陽が柔位にあって蒙の終わりにおり、やはり啓発の責を負う。艮は手なので「撃つ」。正応の六三は寇を表す坎の中にあり、金夫を見て来ない。蒙昧を最後まで放置すれば、盗賊に堕しかねない。もう待てず、決然と手を下すべきだが、攻める側ではなく禦ぐ側に立つ。小象は「上下順うなり」という。三四五の互坤は衆・順であり、衆の支持を得て蒙の段階を越えられる。
もう一層深く
上九「蒙を撃つ」。上卦の艮は手なので、手を下して打つことができる。その下の六三・六四・六五は互坤で、坤は衆、順である。衆の支持があるので、戒めが暴力にならない。爻辞が「寇を為すに利あらず、寇を禦ぐに利し」と添えるとおり、守るためであって侵すためではない。
この爻を得たら
決然と正すべき時である。きっぱりと誤りを正せ。ただし守り防ぐ立場にとどまり、怒りにまかせてやりすぎないこと。
書き下し文は本サイトによる。明治・大正期の公有訓読(漢文叢書『詩経書経易経』1922年、国立国会図書館デジタルコレクション)と照合した。
故事 典
先覚を以て後覚を覚す
伊尹はもと有莘の野で耕し、堯舜の道を楽しんでいたが、湯王が三度も幣帛をもって招いたので世に出た。《孟子・万章上》は彼の言葉を伝える。「天の此の民を生ずるや、先知をして後知を覚さしめ、先覚をして後覚を覚さしむ。予は天民の先覚者なり」。先に道理を悟った者は、まだ悟らぬ者を目覚めさせる責任がある。天下に一人でもその恩沢を受けぬ民がいれば、自ら溝へ突き落としたように思った、という。人の智慧は代々の手探りと犠牲の上に積み重なってきた。先覚がそれを後に伝えること、これが蒙における師弟の意味である。
再三すれば瀆る
気に入らない卦が出た人が、もう一度占ってよいかと尋ねた。答えはこうだ。それなら本をめくって好きな卦を選べばよい、そのほうが早い。廟で筊(ポエ)を何度も投げ、望みの結果が出るまでやめない人もいる。卦辞の「初筮は告ぐ、再三すれば瀆る、瀆るれば告げず」は明快である。誠があれば一度で定まる。結果が悪ければ、帰って己を省み徳を修めるべきで、神や友人に自分の裏書きを迫るべきではない。師に学ぶことも、占いに問うことも同じである。
人生への示唆 悟
蒙の核心は「蒙以て正を養う」にある。誰もが蒙昧から出発する。それは恐れるに足りない。恐るべきは正を養う時機を逃すことだ。徳は年齢とともに自然に育つものではなく、早いうちに決然とした行いで養わねばならない。教育には決まりが要るが、罰だけに頼ってはならず、最後は恥を知る心と自覚を呼び覚ますことである。学ぶにも教えを請うにも誠と敬が要る。上に立つ者も、自らを童蒙と知って謙虚に善を好み、賢者を信じれば、かえって吉となる。