卦名 名
「復」は彳に従い、歩みに関わる字で、往って還る、元の所へ戻るのが原義である。『易』では正道に、本来あるべき姿に戻ることをいう。悪い方へ向かうのは復ではなく、逸脱である。
卦象 象


上卦は坤(地)、下卦は震(雷)で、雷が地中に潜む。五陰の下、最下位に一つの陽が再び現れる。これが「一陽来復」である。旧暦十一月、冬至の月にあたり、最も寒い時節に、生気はすでに地の底で動き始めている。
取象の重なり 層
一つの卦はいくつもの層で読める。八卦は一家の人々(父母・長中少の男女)、六爻は組織の位(新人から君主まで)、さらに自然現象や動物にもなる。層を一つ重ねるごとに、爻辞の意味が深まる。
一家として見る
下卦の震は長男、上卦の坤は母である。長男が母のもとへ帰り、大地の下に身を置く。五つの陰爻の下に、一つの陽爻がふたたび現れる。長く家を離れていた息子が門口に戻った瞬間である。力はまだ小さく、母(坤)の包容と静けさのなかでゆっくり育つ必要がある。復は引き返すことであり、根本からやり直すことでもある。
卦辞「七日にして来たり復る」、「大象」「先王以て至日に関を閉ず」。復は十一月、冬至の卦で、一年で最も昼が短いが、陽気はここから戻り始める。五月の姤(一陰生ず)から数えて、陽は七つの段階を経て帰ってくるので「七日」という。古人は冬至に関を閉じて休み、芽生えたばかりの生気を驚かさなかった。
初九「遠からずして復る、悔いに祇ることなし、元吉」。初爻は歩み出したばかりの人で、下卦震の主爻でもあり、震は足である。足が遠くへ行かないうちに引き返すので、代償は小さく悔いに至らない。全卦唯一の陽爻であり、改めるには最良の時である。早いほど安くつく。
六四「中行にして独り復る」。六四は五つの陰爻の真ん中にあり、二三四・三四五の二つの互坤のどちらにも含まれ、周りは同類ばかりである。しかし初九と正応するのはこれだけなので、衆のなかでひとり向きを変え、正道に戻ることができる。大勢に流されないのは、心があの小さな陽に応えているからだ。
上六「復るに迷う、凶……十年に至るまで征く克わず」。上六は初九から最も遠く、坤の頂にあって、帰り道を見失った。坤の数は十で、十は数の終わりである。ここまで迷えば、十年たっても出征できない。引き返す機会はいつまでも待ってはくれない。
復を逆さにすると剝になる。剝の頂で食べられずに残った大きな実が地に落ち、復の初九となる。何かが崩れきったとき、残された種こそ新生の始まりである。復を得たら、終わったばかりの失敗のなかに、大切にすべき何が残ったかを問うてみるとよい。
復の六爻をすべて変えると姤になる。復は十一月、下に一陽が生じ、姤は五月、下に一陰が生じる。一方はよい始まりの芽生え、一方は隠れた禍の芽生えである。並べて見れば、どちらも告げることは同じだ。最下の一爻は最も見過ごされやすく、しかしその後の行方を決める。
序卦 序
物不可以終盡,剝窮上反下,故受之以復。
〈序卦伝〉は「物不可以終盡,剝窮上反下,故受之以復」という。物は剝がれ尽くして終わることはない。剝で頂から押し出された陽は、純陰の坤を経て最下位に戻ってくる。剝と復は綜卦の関係にあり、剝極まれば復す。
卦辞 辭
復:亨。出入无疾,朋來无咎。反復其道,七日來復,利有攸往。
復は、亨る。出入疾无く、朋来りて咎无し。其の道を反復し、七日にして来復す。往く攸有るに利し。
卦辞は、復は亨る、出入して疾なく、朋来たりて咎なし、その道を反復し、七日にして来復す、往くところあるに利ろし、という。陽は坤の六爻を経て七歩目に初位へ戻るので「七日」という。ただしこれは周期の単位であり、七か月とも七年とも読める。「朋」は、陽の帰還を迎える上の五陰と読むことができる。陽がなければ陰は持ちこたえられないからである。
彖伝 彖
彖曰:復亨;剛反,動而以順行,是以出入无疾,朋來无咎。反復其道,七日來復,天行也。利有攸往,剛長也。復其見天地之心乎?
〈彖伝〉は「剛反,動而以順行」、剛が還り、動いて順って行くという。下の震は動、上の坤は順である。最も重要なのは「復其見天地之心乎」の一句で、復において天地の意図、すなわち一縷の生気を絶やさず万物を生々させようとする心が見える。厳密には天道に善悪はなく、「好生の徳」は人がそこから読み取る啓示である。
大象 象
象曰:雷在地中,復;先王以至日閉關,商旅不行,后不省方。
大象は「雷在地中,復;先王以至日閉關,商旅不行,后不省方」という。芽生えたばかりの陽気は養われねばならない。古の王は冬至に関を閉ざし、商人も旅人も往来せず、君主も四方を巡らなかった。転機に静けさを守ることで、還ってきた力が根づく。
六爻 爻
主爻 初九は唯一の陽爻で、必ず主爻となる。下卦震の主爻でもある。復とは、この陽が還ってくることにほかならない。
六爻の道筋:下から上へ
初九は引き返すことの出発点で、遠くへ行かないうちに戻るので最も吉である。六二は初九のすぐ隣で、善を見てならい、穏やかに正道へ戻る。六三は揺れ動き、何度も戻っては何度も迷う。危ういが、戻ってくる限り大きな過ちはない。六四は群陰のなかで、ひとり初九に応じて向きを変える。六五は厚い心で戻り、悔いがない。上六は遠くまで迷いすぎて引き返す時を逸し、長く立ち直れない。
初九不遠復,无祇悔,元吉。遠からずして復る。悔に祇ること无し。元いに吉。
現代語で
遠からずして復る。悔いに至らず、元吉。
精読
初九は陽が陽位にあって当位、六四と正応し、震の主でもあって動く力がある。だが復の時、ようやく戻ったのに急いで出ることはない。二位へ進めば師卦となり、争いの象である。「祇」は至ること、「元吉」は『易』全体でも稀である。小象の「以修身也」は、進む前にまず己の備えを問えということだ。
もう一層深く
初九「遠からずして復る、悔いに祇ることなし、元吉」。初爻は歩み出したばかりの人で、下卦震の主爻でもあり、震は足である。足が遠くへ行かないうちに引き返すので、代償は小さく悔いに至らない。全卦唯一の陽爻であり、改めるには最良の時である。早いほど安くつく。
この爻を得たら
方向の誤りに気づいたら、すぐに引き返すことだ。代償は今が最も小さい。先を急ぐより、己を正すほうが大切である。
顔淵、過ちを弐たびせず
〈繫辞下伝〉は孔子の言として、この爻で顔淵を称える。「顏氏之子,其殆庶幾乎!有不善未嘗不知,知之未嘗復行也。」念いから行いに至るまで、わずかな不善にもすぐ気づき、気づけば二度と繰り返さない。『論語』も「不遷怒,不貳過」と記す。気づくことは難しく、繰り返さないことはさらに難しい。これが「不遠復」の境地である。
六二休復,吉。休く復る。吉。
現代語で
休みて復る。吉。
精読
六二は陰が陰位にあって中正、初九に隣接し、自然にそちらへ寄り添う。「休」は止まること。小象の「以下仁也」は、下の仁者初九に親しむことをいう。爻の小象で「仁」の字が出るのはここだけである。初九は自ら還り、六二は仁者に導かれて還る。ゆえに一方は元吉、他方は吉である。
この爻を得たら
一度立ち止まり、学ぶに値する人のそばに身を置くことだ。善き人を選んで従うこと自体が福である。
汎く衆を愛して仁に親しむ
『論語』学而篇で孔子は弟子に説く。「入則孝,出則弟,謹而信,汎愛眾而親仁,行有餘力,則以學文。」「親仁」の仁とは、誠をもって善を行う人である。孔孟はよく「善」を語るが、核心に置いたのは「仁」であった。善は規範に従うだけでもありうるが、仁は内から湧き出て「こうすべきだ」と感じさせる力であり、身を殺して仁を成すことすらある。六二の「下仁」は、その力のそばに身を置くことである。
六三頻復,厲无咎。頻りに復る。厲ふけれども咎无し。
現代語で
頻りに復る。厲うけれども咎なし。
精読
六三は陰が陽位にあって中正を得ず、上六とも応じない。しかも震の極にあって揺れが最も激しく、落ち着かない。ゆえに踏み外しては戻り、また戻る。小象の「義无咎也」は、そのつど改めるなら道理の上で過ちはないということだ。立ち返ることは決して易しくない。
この爻を得たら
繰り返し誤ることは恥ではない。恐ろしいのは改めるのをやめることだ。日々省み、何度でも立ち直れば、危うくとも咎はない。
六四中行獨復。中行にして独り復る。
現代語で
中行にして独り復る。
精読
六四は陰が陰位にあって当位、五陰のちょうど真ん中に位置するので「中行」という。五陰のうち初九と正応するのはこれだけであるから「独り復る」。小象は「以從道也」、初九という正道に従うという。吉凶の辞はないが、善いことは明らかである。
もう一層深く
六四「中行にして独り復る」。六四は五つの陰爻の真ん中にあり、二三四・三四五の二つの互坤のどちらにも含まれ、周りは同類ばかりである。しかし初九と正応するのはこれだけなので、衆のなかでひとり向きを変え、正道に戻ることができる。大勢に流されないのは、心があの小さな陽に応えているからだ。
この爻を得たら
周りが誰も引き返さないときでも、独りで正しい道へ戻ることはできる。皆の同意を待つ必要はない。
衆人皆酔い、我独り醒む
『楚辞』「漁父」は、放逐された屈原がやつれて江のほとりをさまよう姿を描く。漁父がわけを問うと、屈原は「舉世皆濁我獨清,眾人皆醉我獨醒,是以見放」と答える。世に合わせよと勧められても、彼は己の清さを守ろうとした。群陰に囲まれながら独り初九に応じて正道へ還る六四には、この群れない醒めた心がある。
六五敦復,无悔。敦く復る。悔无し。
現代語で
敦く復る。悔いなし。
精読
六五は陰が陽位にあって不当位、六二とも応ぜず、主爻の初九からも遠いので、本来なら悔いを免れない。だが上卦坤の中爻であり、坤は地、厚きものであるから「敦」という。小象は「中以自考也」、中にあって自ら省みるという。古人は心が身体の中央にあると考えたから、「中」は心で考えることをも意味する。
この爻を得たら
源から遠くとも、誠実な自己点検によって正しい軌道に戻ることはできる。人には厚く、己には冷静に省みれば、悔いは残らない。
上六迷復,凶,有災眚。用行師,終有大敗,以其國君,凶;至于十年,不克征。復るに迷ふ。凶。災眚有り。用て師を行れば、終に大敗有り。其の国君を以てして凶。十年に至るまで征する克はず。
現代語で
迷いて復る。凶、災眚あり。師を行れば終に大敗あり、その国君に及びて凶、十年に至るまで征くこと克わず。
精読
上六は陰が陰位にあって当位だが、六三と応ぜず、主爻初九から最も遠く、導き手がいないので迷う。「災」は外から来る禍、「眚」は自ら招く禍である。無理に最下位へ戻れば卦は師となり、ゆえに「行師」の象がある。上卦は坤で、坤の上六には「龍戰于野」があり、大敗の象はここに由来する。上六は君位ではなく、退いた重臣や国師の位であり、その行いがかえって六五の重荷となる。小象は「反君道也」という。
もう一層深く
上六「復るに迷う、凶……十年に至るまで征く克わず」。上六は初九から最も遠く、坤の頂にあって、帰り道を見失った。坤の数は十で、十は数の終わりである。ここまで迷えば、十年たっても出征できない。引き返す機会はいつまでも待ってはくれない。
この爻を得たら
道が見えないとき、無理に争ってはならない。迷っていると認め、静かに身を引き、新しい力が下から育つのに任せることだ。
書き下し文は本サイトによる。明治・大正期の公有訓読(漢文叢書『詩経書経易経』1922年、国立国会図書館デジタルコレクション)と照合した。
故事 典
冬至に関を閉ざす
古代の夏暦では十月から十二月が冬で、十一月はその只中にある。冬至は昼が最も短い日で、その後は日ごとに昼が延びる。古人はこの日を陽気の生まれる時と見て、大象は先王が「閉關,商旅不行,后不省方」とした、と記す。寒さを避けたのではない。生まれたばかりの力が最も脆く、静かに養うべきことを知っていたのである。「冬至一陽生」は後に成句となり、最も寒い時にこそ希望は地下で芽吹いていると教える。
吾日に吾が身を三省す
『論語』学而篇で曽子は言う。「吾日三省吾身:為人謀而不忠乎?與朋友交而不信乎?傳不習乎?」初九の「不遠復」、六三の「頻復」、六五の「中以自考」に至るまで、復卦が説くのは一つのこと、立ち返りは自省による、ということである。曽子は魯鈍と評されたが、日々己を省みることで孔子の道を伝えた。復の吉凶は外にはなく、何度でも正道へ戻ろうとする意志にある。
人生への示唆 悟
復卦は、どれほど落ちても生命には一縷の生気が残ることを教える。何を始め直すのか。徳を修めることである。修徳に遅すぎることはなく、終わりもない。立ち返るなら早いほうがよい。遠く離れるほど難しくなる。そして醒めた目で返ることだ。迷いの中の強行はかえって事を悪くする。吉凶は天が定めるのではなく、本来歩むべき道に何度でも戻ろうとする人の意志にかかっている。