无妄
25 / 64 · 上経
无妄天雷无妄(てんらいむぼう)
真実にして偽りなく、軽々しく動かず
真誠正を守る無心

卦名 名

「无」は「無」の古い形、「妄」は虚妄、みだりの意である。「无妄」とは真実にして妄りなきこと、偽りもなく、別の動機や入り組んだ思惑もないことをいう。人においては真誠である。

卦象 象

乾上卦 · 天 · 健
震下卦 · 雷 · 動

上卦は乾(天)、下卦は震(雷)で、天の下を雷が行く。雷鳴が轟けば、万物は雑念を捨てて本来の姿に戻る。人は生涯外へ外へと求め、遠くへ行きすぎて自分を見失う。震撼に出会ってはじめて、何が最も根本なのかと振り返るのである。

取象の重なり 層

一つの卦はいくつもの層で読める。八卦は一家の人々(父母・長中少の男女)、六爻は組織の位(新人から君主まで)、さらに自然現象や動物にもなる。層を一つ重ねるごとに、爻辞の意味が深まる。

一家として見る

下卦の震は長男、上卦の乾は父である。息子は父の目の下で動くので、動機は素直でなければならない。取り入るためでも計算のためでもなく、なすべきことをなすだけだ。長男は行動を、父は天の理を表す。行動が天理にかなうのが「无妄」であり、私心がまじれば、いくら努めても狂いが出る。

互卦 二爻

六二「耕さずして穫り、菑せずして畬す」。六三・九四・九五は互巽で、巽は「市に近くして利三倍」とされ、六二はそのすぐ下にいるので、収穫がおのずと近づく。要は財ではなく、ことさら求めないことにある。条件が熟せば実りは来る。収穫ばかり考えて耕すのは、もう无妄ではない。

動物・取象 三爻

六三「无妄の災い。或いはこれに牛を繋ぐ、行人の得は邑人の災い」。六二・六三・九四は互艮で艮は手、六三・九四・九五は互巽で巽は縄である。手と縄でつないだ牛を、通りがかりの者(震は行く)が引いて行き、村人が疑われる。自分に落ち度がなくとも、いわれのない災いに遭うことがある。成語「无妄の災い」の出典である。

互卦 四爻

九四「貞にすべし、咎なし」。九四は互艮(六二・六三・九四)の最上爻で、艮は止、ちょうど止まれる位置にある。下卦の震をすでに離れ、初九とも応じないので、どうしても動く理由はない。近臣が本分を守り、手柄を急がなければ咎はない。

綜卦

无妄を逆さにすれば大畜で、二卦は一組である。「序卦伝」は「无妄有りて然る後に畜うべし」という。まず動機が純であってこそ、蓄えることが語れる。无妄はみだりに動かず求めないこと、大畜は力をためて沈めること。一方は心のあり方、一方は修練で、順序は逆にできない。

互卦(卦)

二爻から五爻で互卦をとると風山漸になる。无妄は外から見れば天下に雷が動く姿だが、内側の過程は一歩一歩の漸進である。誠実さは一時の衝動ではなく、山の木が年ごとに育つようにゆっくり成るものだ。

序卦 序

復則不妄矣,故受之以无妄。

〈序卦伝〉は「復則不妄矣,故受之以无妄」という。正道に還れば、もはや妄りなことはない。復が立ち返る働きであるなら、无妄は立ち返った後の真実のあり方である。无妄と大畜は綜卦の一組をなす。

卦辞 辭

无妄:元亨。利貞。其匪正有眚,不利有攸往。

无妄は、元いに亨る。貞しきに利し。其れ正に匪ざれば眚有り。往く攸有るに利しからず。

卦辞は、无妄は元いに亨る、貞しきに利ろし、その正にあらざれば眚あり、往くところあるに利ろしからず、という。元亨利貞を備える卦は多くなく、真誠によって一切を始め直せることを示す。だが図るところがないのなら、なぜ出かけるのか。動き出せば目的や思惑が生じ、もはや无妄ではない。ゆえに正を守り、急いで動かぬのがよい。

彖伝 彖

彖曰:无妄,剛自外來,而為主於內。動而健,剛中而應,大亨以正,天之命也。其匪正有眚,不利有攸往。无妄之往,何之矣?天命不佑,行矣哉?

〈彖伝〉は「剛自外來,而為主於內」、剛が外から来て内の主となるといい、初九を指す。下の震は動、上の乾は健、九五は剛中にして六二と応じる。ゆえに「大亨以正,天之命也」。最後に問う。妄りなき時になお往くとして、どこへ往くのか。天命が佑けぬのに、行けようか。

大象 象

象曰:天下雷行,物與无妄;先王以茂對時,育萬物。

大象は「天下雷行,物與无妄;先王以茂對時,育萬物」という。雷が天下を行き、万物は真実の姿を現す。古の王はここから、努めて天の時に応じ、万物を育てることを学んだ。その時になすべきことをなし、余計な作為を加えないのである。

六爻 爻

主爻 〈彖伝〉の「剛自外來,而為主於內」は初九を指し、これが成卦の主であり、下卦震の主爻でもある。剛中にして応ある九五は、全卦の正を守る力を体現する。

六爻の道筋:下から上へ

初九は最も素直な出発点で、私心なく進むので「往けば吉」。六二は中にあり、ことさら耕さずに実りを得る。自然にまかせる良さである。六三は位が正しくなく、自分とは無関係の「无妄の災い」に遭う。無実でも巻き込まれることがあるという戒めだ。九四は上卦に入り、互艮の頂きで止まる。守れば咎はない。九五は君位にあって、自ら招いたのではない病を得るが、「薬するなくして喜び有り」、むやみに手を打たないほうがよくなる。上九は行き詰まりにあってなお動こうとし、「行けば眚い有り」。誠実さも最後には止まることを知らねばならない。

初九无妄,往吉。无妄なり。往けば吉。
主爻位に当たる第4爻と応ぜず
小象 无妄之往,得志也。
現代語で

无妄なり、往けば吉。

精読

初九は陽が陽位にあって当位、全卦の主爻であり、震の始めにあって動く力がある。卦辞は往くに利ろしからずというのに、ここでは往けば吉という。卦は全体の情勢、爻はそれぞれの時と位を表すからである。誠実で、時と位がかなえば進んでよい。小象は「得志也」。ただし「得になるからやる」と考えた瞬間、すでに妄である。

この爻を得たら

誠実に進んでよい。動機は単純に保ち、損得を先に計らず、なすべきことをなせばよい。

条件を計らぬ交わり

ある若い女性が、人から紹介された男性との交際がどうなるかを占い、无妄の初九「无妄,往吉」を得た。この爻の教えは、交わりは真心にあり、家柄や財産、学歴や将来性を先に計るなということである。損得を考えれば相手の人柄や価値観を見落とし、相手もまたこちらの条件を値踏みする。市場で買い物をするようなもので、それでは真の友は得られない。互いに誠実であれば、前へ進むのに障りはない。

六二不耕穫,不菑畬,則利有攸往。耕さずして穫り、菑せずして畬す。則ち往く攸有るに利し。
位に当たる中を得る第5爻と応ず剛に乗る
小象 不耕穫,未富也。
現代語で

耕さずして穫り、菑せずして畬す。則ち往くところあるに利ろし。

精読

六二は陰が陰位にあって中正、九五と正応し、条件はすべて整っている。句読に注意したい。「不耕/穫」は耕さずして穫ることである。「菑」は開墾一年目の田、「畬」は三年耕した熟田。小象の「未富也」は貧しいことではなく、富を求めようとしなかったことをいう。無心にして条件が熟せば、実りは自ずから来る。わざと追えば、そこから問題が生じる。

もう一層深く
互卦

六二「耕さずして穫り、菑せずして畬す」。六三・九四・九五は互巽で、巽は「市に近くして利三倍」とされ、六二はそのすぐ下にいるので、収穫がおのずと近づく。要は財ではなく、ことさら求めないことにある。条件が熟せば実りは来る。収穫ばかり考えて耕すのは、もう无妄ではない。

この爻を得たら

条件はすでに熟している。自然の成り行きに任せ、さらに多くを求めないことだ。求めないことで、かえって得る。

六三无妄之災,或繫之牛,行人之得,邑人之災。无妄の災なり。或は之が牛を繋ぐ。行人の得るは、邑人の災なり。
位に当たらず第6爻と応ず
小象 行人得牛,邑人災也。
現代語で

无妄の災い。或いは牛を繋ぐ。行人の得るは、邑人の災いなり。

精読

六三は陰が陽位にあって中正を得ず、ゆえに无妄の災いに遭う。成語「無妄の災い」はこの爻に出る。取象は細かい。下の震は行で行人、互卦の艮は手、巽は縄で、行人が縄を手にする姿となる。牛と邑人は坤から来る。下卦はもと坤であり、初爻が変じて震となったとき、牛は失われ邑人が累を被った。小象は「行人得牛,邑人災也」。誰かが得れば、誰かが失う。

もう一層深く
動物・取象

六三「无妄の災い。或いはこれに牛を繋ぐ、行人の得は邑人の災い」。六二・六三・九四は互艮で艮は手、六三・九四・九五は互巽で巽は縄である。手と縄でつないだ牛を、通りがかりの者(震は行く)が引いて行き、村人が疑われる。自分に落ち度がなくとも、いわれのない災いに遭うことがある。成語「无妄の災い」の出典である。

この爻を得たら

身に覚えのない累が及ぶかもしれず、あるいは自分の得が他人の損になっているかもしれない。連鎖に注意し、得たときには節度を保ち、その責任を思うことだ。

九四可貞,无咎。貞にす可し。咎无し。
位に当たらず第1爻と応ぜず
小象 可貞无咎,固有之也。
現代語で

貞にすべし、咎なし。

精読

九四は陽が陰位にあって不当位で、本来咎められる点がある。「无咎」を見たら、まず咎はどこにあったかを問うべきだ。だが落ち着かぬ震卦をすでに離れ、初九とも応ぜず心を動かされず、すぐ上の九五の君を承け、互卦艮の上にあって艮は止である。小象は「固有之也」、守り抜く条件は本来備わっているという。

もう一層深く
互卦

九四「貞にすべし、咎なし」。九四は互艮(六二・六三・九四)の最上爻で、艮は止、ちょうど止まれる位置にある。下卦の震をすでに離れ、初九とも応じないので、どうしても動く理由はない。近臣が本分を守り、手柄を急がなければ咎はない。

この爻を得たら

新たな動きは要らない。今の持ち場と原則を守れば十分である。静かであることが、今は最善だ。

九五无妄之疾,勿藥有喜。无妄の疾あり。薬すること勿くして喜び有り。
位に当たる中を得る第2爻と応ず
小象 无妄之藥,不可試也。
現代語で

无妄の疾、薬することなくして喜びあり。

精読

九五は陽が陽位にあって中正、六二と正応し、自らの位にまったく問題はない。病の源は外にある。応じる六二が震の中にあり、震は躁であって、乱れを持ち込む。原因が自分にない以上、軽々しく手を打ってはならない。さもなければ妄なきものが妄となり、新たな弊が生じる。小象は「无妄之藥,不可試也」。一爻を読むには、それと応じる爻も見なければならない。

この爻を得たら

厄介ごとは外から来たもので、あなたの過ちではない。慌てて弁明したり劇薬を用いたりする必要はない。清い者は自ずから清い。この爻は処し方の心構えを説くもので、実際の健康の問題は専門の医療に従うべきである。

丘未だ達せず、敢えて嘗めず

『論語』郷党篇によれば、魯の権臣季康子が孔子に薬を贈った。孔子は拝して受けたが、「丘未達,不敢嘗」と言った。薬の性をまだ知らないので、口にはしないというのである。贈り主は国政を握る人物であったが、孔子は義理で飲むことをせず、ありのままを告げた。九五の小象「无妄之藥,不可試也」は、まさにこの慎重さである。

《論語・鄉黨》
上九无妄,行有眚,无攸利。无妄なり。行けば眚有り。利しき攸无し。
位に当たらず第3爻と応ず
小象 无妄之行,窮之災也。
現代語で

无妄なり。行けば眚あり、利ろしきところなし。

精読

上九は陽が陰位にあって不当位、全卦の極にあって行き止まりを表す。六三と正応し、応があれば動こうとする心が起こる。だが六三は互卦艮の中にあり、艮は止で、行く手を塞ぐ。小象は「窮之災也」。心が不誠なのではなく、すでに道の果てに来て行くところがないのである。

この爻を得たら

今はどんな行動も、善意からであっても実を結びにくい。動かずにいて、この局面がすでに終わったことを受け入れることだ。

書き下し文は本サイトによる。明治・大正期の公有訓読(漢文叢書『詩経書経易経』1922年、国立国会図書館デジタルコレクション)と照合した。

故事 典

楚人、弓を失う

『孔子家語』と『説苑』によれば、楚の共王は狩りで良弓を失くした。左右が探そうとすると、王は「楚王失弓,楚人得之,又何求之?」と言った。孔子はこれを聞き、惜しいかな度量がまだ小さい、「人遺弓,人得之」と言えばよいのに、なぜ楚に限るのか、と評した。『呂氏春秋』貴公篇は同じ類の話を載せ、さらに老聃は「人」の字すら去ろうとした、と進める。楚人から人へ、さらに天地万物へと視野は広がる。六三は得失が連なることを説くが、この話は得失を見る眼を一段ずつ開いていけることを教える。

《孔子家語・好生》;《說苑・至公》;《呂氏春秋・貴公》

人の生くるや直し

『論語』雍也篇で孔子は言う。「人之生也直,罔之生也幸而免。」人は真っ直ぐさによって世に立つ。それなしに生き延びるのは、たまたま禍を免れたにすぎない。无妄の卦辞「其匪正有眚」はこれと響き合う。孔子はまた、五十にして易を学べば「可以无大過矣」とも言った。誠実であっても小さな過ちは免れない。无妄とは一度の宣言ではなく、生涯の修徳なのである。

《論語・雍也》;《論語・述而》

人生への示唆 悟

无妄は真誠を教えるが、真誠とは決して動かないことではない。時と位がかなえば動き、かなわなければ軽々しく動かない。利のために動いた瞬間、すでに妄がある。人生には身に覚えのない災いや病もあり、それは過ちを犯した証ではない。そのとき計算づくの心に切り替えるのではなく、正を守り徳を修め、不変をもって万変に応じるのである。「人不知而不慍」とは、己の誠に責任を持つことにほかならない。

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