中孚
61 / 64 · 下経
中孚風沢中孚(ふうたくちゅうふ)
実にして虚なる誠は、豚魚にまで及ぶ
誠信虚心呼応

卦名 名

「孚」は『説文』に「卵孚なり」とあり、鳥が卵を時を違えず孵すことから、まことの意となった。「中孚」とは、まことが心の中に在ることである。卦の形は上下対称で、二つに割って合わせれば証となる古代の符節に似る。誠とは標語ではなく、二つの片割れが本当に合致することなのである。

卦象 象

巽上卦 · 風 · 入
兌下卦 · 沢 · 說

上卦の巽は風、下卦の兌は沢で、風が沢の上を吹けば水面はあまねく感応する。四陽が外に、二陰が中にあって、全体は大きな離(り)のようであり、上下は水に映る影のように対称をなす。上下の卦をそれぞれ見れば二と五が陽で「中実」、全卦で見れば三と四が陰で「中虚」である。程頤は「中虚は信の本、中実は信の質」という。私心なく虚ろであることが誠の根本、着実に実力を備えることが誠の中身である。

取象の重なり 層

一つの卦はいくつもの層で読める。八卦は一家の人々(父母・長中少の男女)、六爻は組織の位(新人から君主まで)、さらに自然現象や動物にもなる。層を一つ重ねるごとに、爻辞の意味が深まる。

一家として見る

下卦の兌は少女、上卦の巽は長女で、姉妹が上下に並び、真ん中の二つの陰爻が空いている。姉は上で穏やかに従い、妹は下で喜んで応じる。互いに身構えず、心に相手のための場所を空けておく。これが誠信の姿である。兄弟姉妹の信頼は契約によらず、心に場所を残すことによる。

互卦 二爻

九二「鳴鶴陰に在り、その子これに和す」。九二は九二・六三・六四の互震のなかにあり、震は雷、鳴くことなので、鶴が鳴く。六三・六四・九五は互艮で、艮は少男、親鶴に対する子鶴である。親鶴が木陰で低く鳴けば、子鶴は姿を見ずとも応える。真心に舞台はいらない。

互卦 三爻

六三「敵を得たり、或いは鼓し或いは罷め、或いは泣き或いは歌う」。六三は互震と互艮の両方にある。震は雷で、転じて太鼓を打って攻めること。艮は止で、転じて兵を収めること。攻めたり止めたり、泣いたり歌ったり。誠信を相手に預けると、気分は相手しだいで上下する。

動物・取象 五爻

九五「孚有りて攣如たり、咎なし」。九五は上卦巽のなかにあり、巽は縄。また互艮のなかにあり、艮は手。手で縄を握って各爻をつなぐように、君主の誠信が皆をしっかり結ぶ。ただ九二とは同じ陽で応じないので、「咎なし」とだけいい、大吉とはいわない。

動物・取象 上爻

上九「翰音天に登る、貞なれば凶」。巽は鶏で、上位は天の位置なので、鶏の声が天まで響く。鶏は高く飛べないのに声だけは遠くまで届く。勢いが中身を上回っている。誠信が最後に掛け声だけになれば、響くほど長続きしない。

錯卦

中孚の六爻をすべて変えると雷山小過になる。中孚は四陽が外、二陰が内で、中の空いた大きな離のよう。小過は四陰が外、二陽が内で、翼を広げた鳥のよう。どちらにも鳥がいる。こちらは木陰で応え合う鶴、あちらは高く飛びすぎる鳥である。誠の反対は偽りだけでなく、分寸を失って遠くへ飛び去ることでもある。

綜卦

中孚を逆さにしても中孚のままで、上下が完全に対称、湖面に映る影のようである。上から見ても下から見ても同じ。これこそ誠信の性質で、相手がどちら側に立っても、見えるのは同じあなたである。

序卦 序

節而信之,故受之以中孚。

序卦伝は「節してこれを信ず、故にこれを受くるに中孚を以てす」という。前の節は節制であり、節度ある人であってこそ人に信じられる。言葉に節度がなければ、老子のいう「軽諾は必ず信寡し」となり、行いに分寸がなければ、過ぎても及ばなくても信を失う。

卦辞 辭

中孚:豚魚吉,利涉大川,利貞。

中孚は、豚魚にして吉。大川を渉るに利し。貞しきに利し。

卦辞は「中孚は豚魚にして吉。大川を渉るに利あり。貞しきに利あり」。誠が豚や魚にまで及んで吉、大河を渡るによく、正しさを固く守るによい、という。なぜ豚と魚なのかは古来諸説ある。義理を重んじる学派は、豚は落ち着かず魚は鈍く、最も感じにくい生き物であり、それすら動かす誠ならどこへでも届くと読む。象数の学派は卦変をたどって豚と魚の出所を一つずつ探し当てる。いずれにせよ要点は、誠は遠くまで通じうること、そしてそれは長く正しさを守ってはじめて保たれることにある。

彖伝 彖

彖曰:中孚,柔在內而剛得中。說而巽,孚,乃化邦也。豚魚吉,信及豚魚也。利涉大川,乘木舟虛也。中孚以利貞,乃應乎天也。

彖伝は「柔、内に在りて剛、中を得」という。六三・六四の柔が内にあり、九二・九五の剛が中位を得ている。「説びて巽う、孚にして乃ち邦を化す」。下の兌の喜びと上の巽の従順によって、誠は国をも感化する。「大川を渉るに利ありとは、木に乗りて舟虚しければなり」。巽は木、中の二爻が空いているのは舟の船室のようである。「中孚にして以て貞に利あるは、乃ち天に応ずるなり」。

大象 象

象曰:澤上有風,中孚;君子以議獄緩死。

大象は「沢上に風あるは中孚なり。君子以て獄を議し死を緩くす」。下の兌は口ゆえに訴えを慎重に議し、上の巽は風で決断をためらう性ゆえに死刑の判断を緩やかにする。誠のうちにも天の好生の徳がある。正義を求めるときこそ、当事者の境遇と背景をできるかぎり理解し、生きる余地を残すべきだ。ただし同情は法を割り引くことではない。

六爻 爻

主爻 九二と九五は剛にして中を得た「中実」であり、誠の実質をなす。ともに陽で形の上では応じないが、間の六三・六四が虚ろで遮るものがないため、かえって声と気がじかに通う。中正を得て縄のように諸爻をつなぐ九五が全卦の核心である。

六爻の道筋:下から上へ

初九は自分の信念に安んじ、心が定まれば吉、ほかに思惑があれば安らがない。九二は木陰で低く鳴く鶴で、目立たずとも応える声があり、誠の最も純な姿である。六三は下卦の頂で、心を相手に預け、攻めては止め、泣いては歌い、自分の軸を失う。上卦に入った六四は満ちかけの月のように、仲間を離れて君主に従い、咎がない。九五は誠信で皆をしっかり結ぶ。上九に至って誠は高い声だけになり、飛べないのに響きだけが大きく、固執すれば凶である。

初九虞吉,有它不燕。虞れば吉。它有れば燕からず。
位に当たる第4爻と応ず
小象 初九虞吉,志未變也。
現代語で

予め量り知れば吉。ほかに事があれば安らかでない。

精読

初九は陽位に陽が居て位正しく、六四と正応し、出だしはよい。「虞」はもともと山林を司り狩りの案内をする役人で、屯の「鹿に即くに虞なし」がそれである。のちに予め量る意となり、孟子に「不虞の誉れ」の語がある。上を見れば九二・六三・六四の互震が下の兌と重なり、雷が沢に入る象であるから、今は静かに身を処すのがよい。小象は「志未だ変ぜざるなり」という。初めから心を一つにしていれば、余計な枝葉は生じない。

この爻を得たら

まず状況をよく見極め、心を定めれば吉である。迷わず、余計な枝葉を広げないこと。

九二鳴鶴在陰,其子和之,我有好爵,吾與爾靡之。鳴鶴陰に在り。其の子之に和す。我に好爵有り。吾爾と之を靡にせん。
主爻位に当たらず中を得る第5爻と応ぜず
小象 其子和之,中心愿也。
現代語で

鳴く鶴は陰に在り、その子これに和す。我に好き爵あり、吾れ爾とこれを共にせん。

精読

九二は陰位に陽が居て位は正しくないが中を得ている。鶴は陽の鳥とされ、それが陰位にあるから「鳴鶴、陰に在り」。互震のなかにあり震は雷、鳴くことである。六三から九五の互艮は少男で、応える子鶴にあたる。九二と九五はともに陽で本来応じないが、間の二陰が虚ろで遮らないため、一つの杯を分かつようにじかに呼応する。小象は「中心より願うなり」という。『詩経』のような美しい辞で、六十四卦随一の名句とされることが多い。

もう一層深く
互卦

九二「鳴鶴陰に在り、その子これに和す」。九二は九二・六三・六四の互震のなかにあり、震は雷、鳴くことなので、鶴が鳴く。六三・六四・九五は互艮で、艮は少男、親鶴に対する子鶴である。親鶴が木陰で低く鳴けば、子鶴は姿を見ずとも応える。真心に舞台はいらない。

この爻を得たら

真心からの声には必ず応える者がいる。分かち合い、協力し、誠をもって交わるのによい。言動の影響は思う以上に遠くまで及ぶから、いっそう慎むこと。

言行は君子の枢機

『繫辞上伝』はこの爻を引き、孔子の言葉を記す。君子が家にいて善い言葉を発すれば、千里の外にも応じる者がいる。まして近くの者はなおさらだ。善くない言葉を発すれば千里の外も背く。まして近くはなおさらだ。「言は身より出でて民に加わり、行は邇きより発して遠きに見る。言行は君子の枢機なり。枢機の発するは、栄辱の主なり」。枢は戸の軸、機は弩の引き金で、ひとたび動けば栄誉か恥辱かが決まる。千里の彼方の見知らぬ人が、何の恩も受けていないのになぜ応じるのか。言葉が万人の心に共通する求めにかなっているからで、ここに人の本性が善に向かうことが見てとれる。これまで言動に慎みが欠けていても構わない。今から一つ一つを誠実にすれば、人はすぐ変化に気づく。

《周易・繫辭上傳》
六三得敵,或鼓或罷,或泣或歌。敵を得たり。或いは鼓し或いは罷め、或いは泣き或いは歌ふ。
位に当たらず第6爻と応ず剛に乗る
小象 可鼓或罷,位不當也。
現代語で

敵を得て、あるいは鼓し、あるいは罷め、あるいは泣き、あるいは歌う。

精読

六三は陽位に陰が居て中も正も得ない。上九と応じてはいるが、下卦の頂にあって上卦と向き合う。全卦は上下が鏡像をなすので、出会う「敵」とは自分と瓜二つの相手である。互震にあって震は鼓、互艮にあって艮は止まり罷めること、下の兌は口で歌、上の巽の風は号泣である。進むか退くか、泣くか笑うかが定まらないのは、小象にいう「位当たらざるなり」ゆえである。

もう一層深く
互卦

六三「敵を得たり、或いは鼓し或いは罷め、或いは泣き或いは歌う」。六三は互震と互艮の両方にある。震は雷で、転じて太鼓を打って攻めること。艮は止で、転じて兵を収めること。攻めたり止めたり、泣いたり歌ったり。誠信を相手に預けると、気分は相手しだいで上下する。

この爻を得たら

力の拮抗する局面で気持ちも進退も揺れ動くのは、自分の立ち位置がずれているからだ。まず自分を落ち着かせ、それから行くか止まるかを決めよ。

六四月幾望,馬匹亡,无咎。月望に幾し。馬匹亡ふ。咎无し。
位に当たる第1爻と応ず
小象 馬匹亡,絕類上也。

異文 「月幾望」は、一本に「既」に作る。

現代語で

月は既に望を過ぎ、馬匹亡う。咎なし。

精読

六四は陰位に陰が居て位正しく、下は初九と応じ、上は九五を承ける。すでに上卦の巽に入っている。八卦を月の満ち欠けに配すれば巽は陰暦十六日、満月を過ぎて欠けはじめる月であり、それで「月既に望」という(通行本は「幾望」、ここは帛書本に従う)。卦変説では中孚は遯(とん)から訟(しょう)を経て来たもので、遯の上卦乾は馬であるが、中孚に至って乾は消えている。だから「馬匹亡う」。小象は「類を絶ちて上るなり」という。下の仲間を離れ、九五を奉じに上るのである。盛りを過ぎ、失うものもあるが、位正しく一心に上に従うゆえに咎はない。

この爻を得たら

盛りが欠けに転じる時である。旧い仲間や拠りどころを手放す覚悟をし、正しい方向に専心すること。失うものと引き換えに、咎のなさを得る。

九五有孚攣如,无咎。孚有りて攣如たり。咎无し。
主爻位に当たる中を得る第2爻と応ぜず
小象 有孚攣如,位正當也。
現代語で

孚ありて攣如たり。咎なし。

精読

九五は陽位に陽が居て中正を得、全卦の核心である。上卦の巽にあり巽は縄、互艮にあり艮は手で、手で縄を持って諸爻を結びつける象となる。その誠は疑いようがない。ただ同じ陽の九二とは応じないので、辞は「咎なし」にとどまる。小象は「位正しく当たればなり」という。真の誠は、目に見える縄だけでつなぎとめられるものではない。

もう一層深く
動物・取象

九五「孚有りて攣如たり、咎なし」。九五は上卦巽のなかにあり、巽は縄。また互艮のなかにあり、艮は手。手で縄を握って各爻をつなぐように、君主の誠信が皆をしっかり結ぶ。ただ九二とは同じ陽で応じないので、「咎なし」とだけいい、大吉とはいわない。

この爻を得たら

要の位にあるなら、誠によって人々を束ねること。ただ規則や利害だけで縛ろうとせず、心からの通じ合いこそが確かなものだと心得よ。

上九翰音登于天,貞凶。翰音天に登る。貞なれども凶。
位に当たらず第3爻と応ず
小象 翰音登于天,何可長也。
現代語で

翰音、天に登る。貞なれば凶。

精読

上九は陰位に陽が居て位は正しくなく、六三と応じる。『礼記』曲礼下には宗廟の供物にそれぞれ美称があり、「雞を翰音と曰う」とある。鶏の鳴き声は高く澄んでいるからだ。上の巽は鶏、六三のある互震は鳴くこと、上の位は天の位であるから、鶏声が「天に登る」。だが鶏は地上の鳥であり、その声が天にまで届こうとするのは、身の丈と実力をはるかに超えた勢いである。小象は「何ぞ長かるべけんや」と問う。卦の果てで行き場もなく、長続きはしない。

もう一層深く
動物・取象

上九「翰音天に登る、貞なれば凶」。巽は鶏で、上位は天の位置なので、鶏の声が天まで響く。鶏は高く飛べないのに声だけは遠くまで届く。勢いが中身を上回っている。誠信が最後に掛け声だけになれば、響くほど長続きしない。

この爻を得たら

名声や約束や野心が実力を追い越している。無理を続けず、己を知って担える分量に戻り、別の道から出直すとよい。

試験前の一卦

宗教学を修めた若者が、合格率わずか数パーセントの公務員試験に挑もうとしていた。試験科目は専門とほとんど関係がない。受験前に占うと中孚の上九「翰音、天に登る。貞なれば凶」を得た。声が身の丈と実力を超えて高く上がるという爻で、実際に彼は合格しなかった。だがこれは諦めよという話ではない。易とは変化であり、一時の吉凶は一生の得失ではない。逆境のなかで方向を考え直し、やり方を改め、別の目標を選べば、凶の後にも吉は現れうる。

書き下し文は本サイトによる。明治・大正期の公有訓読(漢文叢書『詩経書経易経』1922年、国立国会図書館デジタルコレクション)と照合した。

故事 典

豚魚の三説

「豚魚にして吉」の四字は、歴代の注釈家に腕を振るわせてきた。宋の程頤は義理の立場から「豚は躁にして魚は冥、物の感じ難き者なり」とし、そのような生き物にまで誠が及べば及ばぬところはないと説いた。明の来知徳は豚魚を河豚とみる。大きな沢に棲み、風が起ころうとすると水面に浮かんで風を拝むようにする。上が風で下が沢、まさにその天性の信である。漢の虞翻は象数家で、中孚の卦象そのものには豚も魚も見当たらないと知り、この卦を遯から訟を経て中孚に至るものとした。遯の互巽が魚、訟の下卦坎が豚というわけだ。三説それぞれに妙味があるが、彖伝は「信、豚魚に及ぶ」というのみで、程頤の読みに最も近い。

程頤《伊川易傳》、來知德《周易集注》、虞翻注(見李鼎祚《周易集解》)

符節と使節

中孚の卦形は上下対称で、真ん中から割った符節のようである。古代には竹や木や金属に刻んだ割符を二つに分け、双方が半分ずつ持ち、会えば合わせてみて、ぴたりと合ってはじめて証とした。他国に遣わされる者はこの符節を携えたので「使節」と呼ばれ、この語は今も大使を指して使われる。現代の映画にも似た場面がある。紙幣を二つに裂き、落ち合ったときに裂け目を合わせて本人を確かめるのだ。裂け目は偽れず、誠もまた装えない。二つの片割れは、もともと一つでなければならない。

人生への示唆 悟

誠は虚と実からなる。心が虚であれば先入観なく人を受け容れられ、心が実であれば本当の力があって約束を果たせる。言葉は控えめに、行いは着実に。言行は栄辱の枢機であり、真心の一言は千里の外にも応えを得る。ところがこの誠の卦で、九二を除けば多くの爻は「咎なし」どまりで、上九に至っては「貞なれば凶」である。誠の難しさがわかる。共に事にあたる人々の動機はまちまちで、事によって生じた縁はもろい。長く正しさを守り、名と実が一致してはじめて、誠は立つ。

関連する卦 通