卦名 名
睽(けい)は「序卦伝」に「乖」と訓じられ、背き離れること。字は目に従い、もとは両目が同じ方向を見ないことで、転じて互いの意向が合わないことをいう。今も「睽違すること久し」と言えば、長く離れていたという意味になる。
卦象 象


上卦は離(火)で上へ燃え、下卦は兌(沢)で水は下へ沈む。方向が逆で、ますます離れていく。離は中女、兌は少女。「彖伝」に「二女同居して、其の志、行を同じくせず」とある。姉妹は一つ屋根の下に住んでも、やがて別々の家に嫁ぎ、それぞれの志を持つ。家人卦をさかさにした卦である。
取象の重なり 層
一つの卦はいくつもの層で読める。八卦は一家の人々(父母・長中少の男女)、六爻は組織の位(新人から君主まで)、さらに自然現象や動物にもなる。層を一つ重ねるごとに、爻辞の意味が深まる。
一家として見る
中女と少女が同居することは卦象で述べた。むしろ注目すべきは誰がいないかである。家人と比べると、睽には長女がいない。すでに家庭を持ち、姉妹をまとめられる長姉もいなければ、父母もいない。若い二人はそれぞれの思いを抱き、間を取り持つ者がいないので、ますます離れていく。皆をつなごうとする人が家からいなくなると、関係はたやすく乖離する。
初九「馬を喪うも逐うことなかれ、自ずから復る。悪人を見るも咎なし」。睽は中孚から変じた。中孚の六四は互震のなかにあり、震はよく嘶く馬である。四と五が入れ替わると互震が消え、馬を失う。だが同時に六三・九四・六五の互坎が現れ、坎は背の美しい馬である。一頭去れば一頭来るので、追う必要はない。九四は互坎にいて、坎は盗、すなわち「悪人」だが、会っても差し支えない。
九二「主に巷に遇う、咎なし」。九二・六三・九四は互離で、上卦も離、離は光である。双方に光があって互いが見えるので、出会える。だが睽の形は離れることなので、表通りでは会えず、路地で出くわすしかない。関係が疎遠なときは、非公式な接触こそ役に立つ。
六三「輿の曳かるるを見る、その牛は掣めらる。その人、天かれ且つ劓らる。初めなくして終わり有り」。六三は互坎にいて、坎は車を引く馬、また災い多き車で、前へ引く。互離にもいて、離は牛ともなり、後ろへ引く。御者は卦変で中孚の互艮の鼻、巽の髪を失い、刑を受けたようだ。初めはあらゆる所で阻まれるが、上九と正応するので終わりはよい。
上九「豕の塗を負うを見る、鬼を一車に載す。先にはこれが弧を張り、後にはこれが弧を説く。寇するに匪ず婚媾せんとす。往きて雨に遇えば吉」。上九は離、すなわち目にあり、下の互坎を見る。坎は豕、隠れ伏すもので、北方の万物の帰する所なので鬼の象もあり、また弓でもある。疑い深い者には、何もかもが泥まみれの豚や鬼の車に見え、弓を引いてはまた下ろす。雨が降れば、兌の沢が坎に入って離の火を消し、誤解も解ける。
睽を逆さにすると風火家人になる。同じ中女が、家人では長女と、睽では少女と暮らす。家を切り盛りできる長姉がいれば家となり、いなければ睽となる。乖離を繕うには、家人の卦の出発点に戻り、まず信頼と決まりを立て直すとよい。
睽の六爻をすべて変えると水山蹇になる。乖離の裏面は、一歩も進めないことである。人が疎遠になれば、物事はすぐ行き詰まる。逆に、蹇の困難を突き詰めると、関係のこじれであることが多い。どちらの卦も、まず小事で和を求め、少しずつほどいていくことを求める。
序卦 序
家道窮必乖,故受之以睽;睽者乖也。
「序卦伝」に「家道窮まれば必ず乖く、故に之を受くるに睽を以てす。睽とは乖なり」とある。「窮」は貧窮のことではなく、家人卦の六爻が尽きたことである。家族は成長すればやがて分かれ、それぞれ枝葉を広げていく。
卦辞 辭
睽:小事吉。
睽は、小事には吉。
卦辞は「小事に吉」の三字。凶の卦ではなく、離れ合い意見の合わない時には大事を図るべきでないというだけである。「小」は陰爻、すなわち尊位の六五をも指す。離れることは必ずしも悪くない。適度な距離を保ち、小さな事で協力し、小刻みに進めば順調である。
彖伝 彖
彖曰:睽,火動而上,澤動而下;二女同居,其志不同行;說而麗乎明,柔進而上行,得中而應乎剛;是以小事吉。天地睽,而其事同也;男女睽,而其志通也;萬物睽,而其事類也;睽之時用大矣哉!
「彖伝」は睽の積極面を引き出す。「天地睽きて其の事同じきなり。男女睽きて其の志通ずるなり。万物睽きて其の事類するなり」。天地は隔たっても化育の働きは同じ、男女は別でも心は通じ、万物は異なっても営みは似ている。すべてが一つに溶け合えば変化はなくなる。だから「睽の時用、大いなるかな」と讃えるのである。
大象 象
象曰:上火下澤,睽;君子以同而異。
「上に火、下に沢あるは睽なり。君子以て同じくして異なる」。大同を求め、小異を存す。「大同」の「大」は包容にある。大きな方向が一致すればよく、何もかも同じである必要はない。差異を残せば世界は彩り豊かになり、画一化すれば単調になるだけだ。
六爻 爻
主爻 六五が主爻である。「柔進みて上行し、中を得て剛に応ず」。中孚の四位にあった陰爻が五に昇り、中を得て九二と応じる。卦辞の「小事」もこの陰爻を指す。
六爻の道筋:下から上へ
初九は乖離の始まりで馬を失うが、追わずとも戻ってくる。悪人に会っても避けなくてよい。九二は表通りでなく路地で主に会い、非公式な形でつながりを保つ。九三は下卦の頂で、車は引かれ牛は止められ人は刑を受け、初めはさんざんだが、終わりはよい。九四は上卦に入り孤立するが、信頼できる「元夫」に会い、誠をもって交われば危うくとも咎はない。六五は悔いが消え、親族が柔らかな肉をかむようにたやすく和解する。上九は最も疑い深く、何もかもが泥の豚や鬼の車に見えるが、ついに弓を下ろし、ひと雨が誤解を洗い流す。
初九悔亡,喪馬勿逐,自復;見惡人无咎。悔亡ぶ。馬を喪ふも逐ふ勿れ、自ら復る。悪人を見れば咎无し。
現代語で
悔い亡ぶ。馬を喪うも逐う勿れ、自ら復る。悪人を見れば咎无し。
精読
初九は陽が陽位にあって当位だが、九四も陽で応じない。下卦の九二・六三にはともに正応があるのに、これだけにはない。ゆえに悔いがある。しかし睽の時にあっては無応こそ時にかなうので「悔い亡ぶ」。卦変で見れば、中孚の互震(善く鳴く馬)が消えて「馬を喪う」、睽に互坎(六三・九四・六五)が現れ、坎は背の美しい馬で「自ら復る」。九四は坎(盗)の中にあり「悪人」である。小象は「以て咎を辟くるなり」、会っておくことでかえって禍を避けると言う。
もう一層深く
初九「馬を喪うも逐うことなかれ、自ずから復る。悪人を見るも咎なし」。睽は中孚から変じた。中孚の六四は互震のなかにあり、震はよく嘶く馬である。四と五が入れ替わると互震が消え、馬を失う。だが同時に六三・九四・六五の互坎が現れ、坎は背の美しい馬である。一頭去れば一頭来るので、追う必要はない。九四は互坎にいて、坎は盗、すなわち「悪人」だが、会っても差し支えない。
この爻を得たら
失ったものを無理に追わないこと。別の形で戻ってくるかもしれない。気の合わない相手とも礼をもって接しておけば、衝突を避けられる。
九二遇主于巷,无咎。主に巷に遇ふ。咎无し。
現代語で
主に巷に遇う。咎无し。
精読
九二は陽が陰位にあり、中を得て正しくない。正応の六五も中にして不正である。九二にとって六五は主である。両者はともに離の象(互離と上の離)の中にあり、互いに見えるが、睽の時には大っぴらに合うことはできず、巷で出会うしかない。小象「未だ道を失わざるなり」。中道は守っており、ただ道が大通りから路地に変わっただけである。
もう一層深く
九二「主に巷に遇う、咎なし」。九二・六三・九四は互離で、上卦も離、離は光である。双方に光があって互いが見えるので、出会える。だが睽の形は離れることなので、表通りでは会えず、路地で出くわすしかない。関係が疎遠なときは、非公式な接触こそ役に立つ。
この爻を得たら
会いたい人には会え、話も進められるが、控えめに非公式に。表立って騒ぎ立てないこと。
六三見輿曳,其牛掣,其人天且劓,无初有終。輿の曳かるるを見る。其の牛は掣めらる。其の人は天せられ且つ劓らる。初め无くして終り有り。
異文 「其牛掣」は、一本に「𧤊」に作る。
現代語で
輿の曳かるるを見、其の牛は𧤊かる。其の人は天せられ且つ劓せらる。初め无くして終り有り。
精読
六三は陰が陽位にあって不当位、上の九四と下の九二という二つの陽に挟まれ、進むも退くもできない。互坎の中にあり、坎は曳く馬、また眚多き輿である。互離の中にもあり、離は牛ともなる。前へ引き、後ろへ引かれて、車は動かない。「天」は髪を剃る刑、「劓」は鼻を削ぐ刑で、中孚にあった互艮(鼻)と巽(寡髪)が睽に変わると消えてしまう。小象は「位当たらざるなり」と言い、また「剛に遇えばなり」と言う。上九と正応し、ついには剛強な者に迎えられるので「終り有り」。
もう一層深く
六三「輿の曳かるるを見る、その牛は掣めらる。その人、天かれ且つ劓らる。初めなくして終わり有り」。六三は互坎にいて、坎は車を引く馬、また災い多き車で、前へ引く。互離にもいて、離は牛ともなり、後ろへ引く。御者は卦変で中孚の互艮の鼻、巽の髪を失い、刑を受けたようだ。初めはあらゆる所で阻まれるが、上九と正応するので終わりはよい。
この爻を得たら
初めはあちこちで阻まれ、恥をかくことさえあるが、それで投げ出す理由にはならない。一時の窮状に耐えれば、やがて結末と力強い支えが得られる。
九四睽孤,遇元夫,交孚,厲无咎。睽きて孤なり。元夫に遇ひ、交ごも孚あり。厲ふけれども咎无し。
現代語で
睽きて孤なり。元夫に遇い、交ごも孚あり。厲うけれども咎无し。
精読
九四は陽が陰位にあって不当位、下の兌と上の離が袂を分かつ境目にあり、上下の陰爻(六三・六五)に隔てられて同類と隣り合えない。ゆえに「睽きて孤なり」。初九とは応じないが、睽ではそれがかえってふさわしい。「元」には初・大の意があり、「元夫」は初九、転じて有為の士を指す。応を持たぬ者同士が互いを信じる。小象「志行わるるなり」。
この爻を得たら
孤立して落ち着かないが、信頼し合える人にはまだ出会える。誠をもって接し支え合えば、危うさがあっても乗り越えられる。
六五悔亡,厥宗噬膚,往何咎。悔亡ぶ。厥の宗膚を噬む。往くも何の咎かあらん。
現代語で
悔い亡ぶ。厥の宗、膚を噬む。往くに何の咎あらん。
精読
六五は陰が陽位にあり、中にして不正、卦の主で九二と応じる。睽では正応がかえって時にそぐわないので悔いがあるが、中孚の四位から五に昇り中を得て尊位にあるので、悔いは消える。中孚の互艮は膚であり、四と五が入れ替わると陽が四に降りて肉に噛みつくような形になる。この九四がその「宗」である。小象「往きて慶び有るなり」。
この爻を得たら
懸念は下ろしてよい。そばに心を同じくする人がいる。出向くか、一歩踏み出すかを迷っているなら、今は行ってよい。
上九睽孤,見豕負塗,載鬼一車,先張之弧,後說之弧,匪寇婚媾,往遇雨則吉。睽きて孤なり。豕の塗を負ひ、鬼を載すること一車なるを見る。先には之が弧を張り、後には之が弧を説く。寇するに匪ず、婚媾せんとす。往きて雨に遇へば則ち吉。
異文 「負塗」は、一本に「涂」に作る。
現代語で
睽きて孤なり。豕の涂を負うを見、鬼を一車に載す。先には之が弧を張り、後には之が弧を説く。寇するに匪ず、婚媾せんとす。往きて雨に遇えば則ち吉。
精読
上九は陽が陰位にあって不当位、睽の極にあり、孤独のあまり疑心にとらわれる。離(目)の中から、間に横たわる互坎を見下ろす。坎は豕、また溝瀆で、泥まみれの豚となる。坎は北方、万物の帰する所で、人の帰する所は鬼、また眚多き輿でもあるから、鬼を満載した車となる。坎は弓輪、また盗であるから弓を張る。だが実は上九と六三は正応で、相手は縁組みに来たのである。六三が昇ると沢の水が坎に入って雨となり、離の火を消す。小象「群疑亡ぶるなり」。
もう一層深く
上九「豕の塗を負うを見る、鬼を一車に載す。先にはこれが弧を張り、後にはこれが弧を説く。寇するに匪ず婚媾せんとす。往きて雨に遇えば吉」。上九は離、すなわち目にあり、下の互坎を見る。坎は豕、隠れ伏すもので、北方の万物の帰する所なので鬼の象もあり、また弓でもある。疑い深い者には、何もかもが泥まみれの豚や鬼の車に見え、弓を引いてはまた下ろす。雨が降れば、兌の沢が坎に入って離の火を消し、誤解も解ける。
この爻を得たら
相手を実際よりずっと悪く思い込んでいるかもしれない。まず疑いを下ろし、率直に話すこと。誤解が解ければ局面は好転する。
疑心、暗鬼を生ず
程頤『伊川易伝』のこの爻の解は、猜疑の心理を見事に描く。上九と六三はもともと正応なのに、睽の極にいるため何もかも疑う。まず相手を泥まみれの豚と見て嫌悪し、嫌悪すればますます悪く想像し、ついには鬼を満載した車まで見えてくる。鬼には形がないのに一車分も見えるとは、無を有とする妄想の極みである。だが睽も極まれば必ず反る。相手はもとより正理を守っており、疑いが解ければついに和合する。離れて暮らす友人同士も、心の中で推し量るばかりでは何気ない振る舞いに悪意を読み込みがちだ。率直に一度会うことが、しばしばその「雨」となる。
書き下し文は本サイトによる。明治・大正期の公有訓読(漢文叢書『詩経書経易経』1922年、国立国会図書館デジタルコレクション)と照合した。
故事 典
張公芸の百忍
『旧唐書』孝友伝によれば、鄆州寿張の張公芸の一族は九代にわたって同居し、北斉・隋・唐の各朝から表彰された。唐の高宗は麟徳年間に泰山で封禅を行う途上、鄆州を通って自らその家を訪ね、これほどの大家族をどう保っているのかを尋ねた。張公芸は紙と筆を求め、ただ「忍」の字を百余り書いた。「忍」は心の上に刃を置く字である。家族が長く共に暮らす陰には、数えきれない譲り合いと包容がある。「序卦伝」の「家道窮まれば必ず乖く」もこれで分かる。家族の情は放っておいて続くものではなく、離合は常であり、同を保つには代価が要る。
弧矢の利は諸を睽に取る
「繋辞下伝」は古の聖人が器物を作ったことを述べて、「木に弦して弧と為し、木を剡りて矢と為す。弧矢の利、以て天下を威す。蓋し諸を睽に取る」と言う。木をたわめて弦を張れば弓、木を削れば矢、それで天下を威服させた。なぜ睽に象を取るのか。人心が背き各自勝手に動く時には、秩序は威勢によって保たれねばならない。しかも卦そのものに、上の離は戈兵、互坎は弓輪という武器の象がある。睽は隔たりだが、古人はその隔たりの中に、秩序を守る必要をも見たのである。
人生への示唆 悟
集まり散じ、離れ合うのは人生の常であり、家族とて例外ではない。睽は別離を災厄とは見ない。天地も男女も万物も、異なるからこそ働きがある。この卦が教えるのは二つ。時が合わなければ小事にとどめて大事を図らぬこと、そして離れているときに最も危ういのは想像であり、疑いが極まれば善意さえ敵意に見えることだ。陰陽の正応も常に善いとは限らず、時による。乖離を癒やすのは議論より、率直さと忍耐であることが多い。