卦名 名
「噬」は噛む、「嗑」は「合」と読み、上下が合わさることである。口の中に物がつかえていれば上下の歯は合わない。まず噛み断ってこそ合わさる。社会におけるつかえとは争訟と不義であり、それを公正に断ってはじめて人心は合する。
卦象 象


下卦は震(雷)、上卦は離(火・電)。雷が轟き稲妻が照らし、何ものも隠れられない。卦形を見れば、初九と上九は上下の歯、間の陰爻は口の中で、九四の一陽がそこに挟まっている。〈彖伝〉のいう「頤中に物有り」である。震は果断な行動、離は明察であり、両者が合わさって訴訟を裁く条件となる。
取象の重なり 層
一つの卦はいくつもの層で読める。八卦は一家の人々(父母・長中少の男女)、六爻は組織の位(新人から君主まで)、さらに自然現象や動物にもなる。層を一つ重ねるごとに、爻辞の意味が深まる。
一家として見る
下卦の震は長男、上卦の離は中女である。兄は果断に動き、妹は細部まで見抜く。雷が震い稲妻が照らす、動と明の二つは、是非を裁くのに欠かせない条件だ。家族の誰かが過ちを犯したときも同じで、よく見ることと、手を下せることの両方が要る。どちらか一方では足りない。
六二「膚を噬みて鼻を滅す」。六二・六三・九四は互艮である。「説卦伝」は艮を「果蓏」とし、外は硬く中は柔らかく、皮つきの脂身のようだ。艮はまた黔喙の属で、鼻と口がつながる。柔らかい肉にかぶりつき、鼻までうずまる。たやすい案件にやや力を入れすぎても、大きな害はない。
六三「腊肉を噬みて毒に遇う」。六三も互艮のなかで皮つきの肉だが、上の離の火に近く、肉はいぶされて硬い干し肉になっている。さらに六三・六四・六五の互坎のなかにあり、坎は険なので毒に当たる。位の当たらない者が厄介な案件を扱えば反撃を受けるが、小さな吝で済む。
九四「乾胏を噬みて金矢を得」。九四は互坎のなかにあり、坎は弓である。また上卦の離のなかにあり、離は戈兵である。弓に兵器を加えれば矢になる。卦は否から変じ、上卦の乾が離に変わったが、乾は金なので金属の矢じりとなる。九四は君に近い大臣で、最も硬い骨に当たる。金の矢のような剛直さが要り、「艱貞」であってこそ吉である。
噬嗑を逆さにすると賁になる。噬嗑は障害を噛み砕き、刑罰で過ちを正す。賁は飾りと礼によって人の振る舞いを整える。集団を治めるには、片手に規則と罰、片手に文化と礼儀が要る。二つの卦はちょうど一枚の硬貨の表裏である。
噬嗑の二爻から五爻は互卦の水山蹇をなす。噛み合わせる過程そのものが一つの難所である。口に物があって上下の歯がすぐには噛み切れないのは、蹇の「険を見て止まる」にあたる。物事を裁くとき途中で行き詰まるのは常のことで、気落ちするには及ばない。
序卦 序
可觀而后有所合,故受之以噬嗑;嗑者合也。
〈序卦伝〉に「観る可くして而る後に合う所有り、故に之を受くるに噬嗑を以てす。嗑とは合なり」とある。観卦の政教が成果をあげれば、民心が合する基盤ができる。だが本当に一つになるには、人と人との争いを処理せねばならない。〈雑卦伝〉は「噬嗑は食なり」ともいう。食べ物は噛み断ってこそ消化できる。
卦辞 辭
噬嗑:亨。利用獄。
噬嗑は、亨る。獄を用ふるに利し。
卦辞は「噬嗑は亨る。獄を用うるに利し」。通じ、訴訟を裁くのに適する。四徳をそなえる卦が多いなか、ここには「亨」の一字しかなく、性格がきわめて鮮明である。「獄」は取り調べ・審理・刑の執行・断罪までを含む。人心が合する前提は、争いが公正に裁かれることだ。正直者が規律を守り悪人がのさばるなら、それ自体が正直者への責め苦となる。
彖伝 彖
彖曰:頤中有物,曰噬嗑,噬嗑而亨。剛柔分,動而明,雷電合而章。柔得中而上行,雖不當位,利用獄也。
〈彖伝〉は「頤中に物有るを噬嗑と曰う」、噛み断って合わさるゆえに亨るという。「剛柔分かれ、動きて明らか、雷電合して章らかなり」。剛柔がはっきり分かれ、動けばすなわち明るみに出て、雷と電が合わさってすべてを照らし出す。「柔中を得て上行す。位に当たらずと雖も、獄を用うるに利し」は六五を指す。陰爻が尊位にあって位は正しくないが、中道をもって温和に明察し、裁きに適している。
大象 象
象曰:雷電噬嗑;先王以明罰敕法。
「雷電は噬嗑なり。先王以て罰を明らかにし法を敕う」。雷には威があり電には明がある。古の王はここから刑罰を明確にし法令を整えた。罰が明らかで法が厳正であってこそ社会に秩序がある。それは報復のためではなく、人に戒めを知らしめ、のちに過つ者をなくすためである。
六爻 爻
主爻 六五が主爻である。〈彖伝〉の「柔中を得て上行す」について、中を得るのは二と五のみで、「上行」したのは六五である。尊位にあって最終の裁きを下す。
六爻の道筋:下から上へ
初九は小さな過ちを犯したばかりの人で、足に枷をはめて指が隠れる。小さく罰して大きく戒め、再び犯さないので咎がない。六二は柔らかい肉を噛んで鼻がうずまる。たやすい事にやや力を入れすぎても差し支えない。六三は干し肉を噛んで毒に遇い、厄介な事で不快な目にあうが、小さな吝で済む。九四は骨つきの干し肉にかじりつく、全卦で最も硬い関門で、剛直と忍耐で越える。六五は干し肉を噛んで黄金を得る。中を得て正を守り、危うくても咎がない。上九は老いるまで過ちを重ね、重い枷が耳まで覆う人で、忠告が耳に入らず、ついに凶となる。
初九屨校滅趾,无咎。校を屨きて趾を滅す。咎无し。
現代語で
校を屨きて趾を滅す。咎无し。
精読
「校」は刑具の総称で、足にかけるのが桎、手にかけるのが梏である。初九は下卦震(足)の底、しかも最下にあるから足の指にあたる。六三・九四・六五は互卦の坎(水)で、初九はその下にあり、沈められる象がある。初・上の二爻は罰を受ける者、間の四爻は裁く者である。初九は陽爻が陽位にあり動こうとするが鎖につながれ、九四とも応じず行き場がないので、それ以上悪をなせない。〈小象〉は「行かざるなり」。早めに止められたから咎がない。
この爻を得たら
条件はまだ整っていない。急いで動かぬこと。いまの小さなつまずきや制約こそ、のちの大きな過ちを防いでくれる。
小しく懲らして大いに誡む
〈繋辞下伝〉は孔子の言葉を引いてこの爻を説く。「小人は不仁を恥じず、不義を畏れず、利を見ざれば勧まず、威さざれば懲りず。小しく懲らして大いに誡むるは、此れ小人の福なり」。恥を知らねば仁を行わず、畏れを知らねば義を行わず、利が見えねば奮い立たず、威されねば改めない。そういう者が小さな過ちのうちに小さな罰を受け、以後戒めて大罪を避けるなら、それはかえって福である。子どもの過ちに「いいよ」と言うだけでは愛情ではない。小さな過ちに小さな責任を負わせてこそ、内なる力が育つ。
六二噬膚滅鼻,无咎。膚を噬みて鼻を滅す。咎无し。
現代語で
膚を噬みて鼻を滅す。咎无し。
精読
「膚」は皮つきの脂身である。六二・六三・九四は互卦の艮で、〈説卦伝〉に「艮を果蓏と為す」、外は硬く内は柔らかい、皮つきの肉の象である。艮はまた「黔喙の属」で、口と鼻が続いているから、ひと噛みで鼻まで埋まる。六二は陰爻が陰位にあって中正、裁く側にいる。だが初九の剛に乗り、六五とも応じないので、剛強な初九に対して力が入りすぎ、食べ方が見苦しくなる。〈小象〉は「剛に乗ればなり」。手段は激しいが位置が正しいので、なお咎はない。
もう一層深く
六二「膚を噬みて鼻を滅す」。六二・六三・九四は互艮である。「説卦伝」は艮を「果蓏」とし、外は硬く中は柔らかく、皮つきの脂身のようだ。艮はまた黔喙の属で、鼻と口がつながる。柔らかい肉にかぶりつき、鼻までうずまる。たやすい案件にやや力を入れすぎても、大きな害はない。
この爻を得たら
立場が正しければ果断に処してよく、手段が多少強くても大きな害はない。ただ節度は失わぬこと。
六三噬腊肉,遇毒;小吝,无咎。腊肉を噬みて毒に遇ふ。小しく吝なれども、咎无し。
異文 「噬腊肉」は、一本に「昔、臘」に作る。
現代語で
昔肉を噬みて毒に遇う。小しく吝なれども咎无し。
精読
経文は「昔肉」とし、「昔」は「腊」に同じく干し肉をいう。六三は互卦の艮の中にあって本来は皮つきの肉だが、上の離の火に近づいて燻され干し肉になった。さらに互卦の坎(険)の中にあるので「毒に遇う」。六三は陰爻が陽位にあり、裁く者自身の位が正しくないため、裁きは相手の恨みを招きやすい。〈小象〉はただ「位当たらざるなり」。それでも上に九四が控え、上九と応じるので、小さな吝にとどまり咎はない。
もう一層深く
六三「腊肉を噬みて毒に遇う」。六三も互艮のなかで皮つきの肉だが、上の離の火に近く、肉はいぶされて硬い干し肉になっている。さらに六三・六四・六五の互坎のなかにあり、坎は険なので毒に当たる。位の当たらない者が厄介な案件を扱えば反撃を受けるが、小さな吝で済む。
この爻を得たら
争いを処理したり規律を守らせたりすれば、恨みを買うのは避けがたい。公正であることと公正と思われることは別だと心得て、揺らがぬこと。
九四噬乾胏,得金矢,利艱貞,吉。乾胏を噬みて、金矢を得。艱しみて貞なるに利し。吉。
現代語で
乾胏を噬みて金矢を得。艱貞に利し、吉。
精読
九四は上卦離に入り、肉はさらに乾く。剛爻であって骨にあたるから「乾胏」、骨つきの干し肉である。互卦の坎は弓、離は戈兵で、合わせて矢となる。本卦は否から変じたもので、上卦はもと乾、乾は金だから金の矢じりである。九四は口に挟まった物でありながら自らも噛む。正直な大臣が奸臣を断つと読める。陽爻が陰位で位当たらず、初九と応じず、坎の険の中にあるので「艱貞」が要る。〈小象〉は「未だ光いならざるなり」。中を得ないので明察は六五に及ばない。全卦でただ一つの「吉」である。
もう一層深く
九四「乾胏を噬みて金矢を得」。九四は互坎のなかにあり、坎は弓である。また上卦の離のなかにあり、離は戈兵である。弓に兵器を加えれば矢になる。卦は否から変じ、上卦の乾が離に変わったが、乾は金なので金属の矢じりとなる。九四は君に近い大臣で、最も硬い骨に当たる。金の矢のような剛直さが要り、「艱貞」であってこそ吉である。
この爻を得たら
難題に突破口は開けるが、道のりは険しい。正道を守って慎重に進み、自分の見通しがまだ十分でないことも認めること。
六五噬乾肉,得黃金,貞厲,无咎。乾肉を噬みて、黄金を得。貞にして厲ふければ、咎无し。
現代語で
乾肉を噬みて黄金を得。貞しけれども厲うし、咎无し。
精読
六五は主爻、君位にあって最終の裁きを下す。噛む干し肉は脂もなく毒もなく骨もない。否から変じたとき、六五は下卦坤から上ってきた。坤は地で色は黄、上卦乾に来て乾は金、合わせて「黄金」となる。陰爻が陽位にあって中を得るが正しくなく、九四の剛に乗り、六二とも応じないので、堅持すれば危うさがある。ゆえに「貞しけれども厲うし」。〈小象〉は「当を得ればなり」。中道を守り、温和に明察するから、裁きは当を得る。
この爻を得たら
最終判断の責を負うとき、堅持には重圧と危うさが伴う。中道を守り、温和で明らかであれば、結果は当を得る。
上九何校滅耳,凶。校を何ひて耳を滅す。凶。
現代語で
校を何いて耳を滅す。凶。
精読
「何」は「荷」、担うことである。初九は足の指を隠し、上九は耳を隠す。人体の上下を象とする。上九は離の頂、互卦の坎の上にある。離は目、坎は耳で、その両方より上にあるから、聞こえず見えない。陽爻が陰位で位当たらず、六三と応じるものの、すでに刑罰の極みに至っている。〈小象〉の「聡明ならざるなり」は「不聡不明」の略である。首枷が耳をふさいだように見えて、実は耳を貸さず目を開かずにきた結果、ここに至ったのである。
この爻を得たら
何事も無理に押し通さず、奇跡も期待しないこと。立ち止まって自らを省み、聞き流してきた忠告に耳を傾けよ。
悪小なるを以て之を為すこと勿れ
〈繋辞下伝〉はこの爻を説く。「善積まざれば以て名を成すに足らず、悪積まざれば以て身を滅ぼすに足らず。小人は小善を以て益無しと為して為さず、小悪を以て傷無しと為して去らず。故に悪積みて掩う可からず、罪大にして解く可からず」。初九の小さな過ちはまだ改められたが、上九の悪は積もって覆い隠せなくなった。三国の劉備は臨終に劉禅へ遺詔を残し、「悪小なるを以て之を為すこと勿れ、善小なるを以て為さざること勿れ」と言った。繋辞と同じ趣旨である。善も悪も小さなところから積もる。頂に至ってから引き返そうとしても、たいてい遅すぎるのだ。
書き下し文は本サイトによる。明治・大正期の公有訓読(漢文叢書『詩経書経易経』1922年、国立国会図書館デジタルコレクション)と照合した。
故事 典
日中に市を為す
〈繋辞下伝〉は古の聖王の創製を述べ、神農氏が「日中に市を為し、天下の民を致し、天下の貨を聚め、交易して退き、各其の所を得しむるは、蓋し諸を噬嗑に取る」という。毎日正午に市を開き、四方の民を招き各地の品を集め、交換して散じ、人々は必要なものを得た。卦象では、上の離は中天の太陽、下の震は行き交う人、六二から九四の互卦の艮は手で、手による交易となる。ここで「嗑」が合わせるのは判決ではなく、分業と交換によって各人が所を得ることである。同じ卦が文脈によってまったく異なる意味を開くのだ。
哀矜して喜ぶこと勿れ
魯の孟孫氏が曽子の弟子陽膚を獄官に任じたとき、陽膚は曽子に教えを請うた。曽子は言った。「上其の道を失い、民散ずること久し。如し其の情を得ば、則ち哀矜して喜ぶこと勿れ」。上の者がとうに道を失い、民は久しく離散している。事件の真相をつかんだなら、彼らを哀れみ、手柄を喜んではならない、と。噬嗑の六爻のうち四爻が「咎无し」をいい、「吉」は一爻のみである。おそらくこの理による。裁きは手柄を求めるためのものではない。正義が果たされても、罰を受ける者を惜しむ心が要る。
字面に脅えず、象を主とする
ある人が占いの実演で自分の近い運勢を問い、噬嗑の九四・上九が変ずる卦を得た。之卦は復である。上九「校を何いて耳を滅す、凶」は字面こそ恐ろしいが、問うたのは運勢であり、実際に首枷をはめられるわけではない。当面は争いごとに注意せよという合図である。内卦の震は変わらないから自分はふだんどおりに振る舞えばよく、外卦は離から坤に変わって外の情勢は柔順に向かい、その先に一陽来復の新しい局面がある。彼は言動を慎み、挑発には譲って、退くことで進むと決めた。のちに思いがけぬ訴訟が起きたが、落ち着いて対処し、何事もなく決着した。爻辞が教えるのは態度であって、脅しではない。
人生への示唆 悟
噬嗑が語るのは正義である。人が生きるには、生かしてくれる仁愛と、心を平らかにする正義の両方が要る。罰は報復ではない。過ちを犯した者が本当に責任を負い、内側から立ち直るためのものである。ひたすら甘やかせば、かえって人を空虚にする。初九から上九まで過ちの性質は同じでも、若いうちの小さな懲らしめなら改められ、積もって頂に至れば取り返しがつかない。裁く者もまた心得ておかねばならない。公正は恨みを招き、明察には限りがある。だから哀矜して喜ぶな、と。