渙
59 / 64 · 下経
渙風水渙(ふうすいかん)
小さな囲いを散じ、より大きく集う
離散宗廟再結集

卦名 名

「渙」はさんずいに従い、『説文』に「渙は流散なり」とあるように、水が広がって四方へ散ってゆくさまをいう。そこから離散・渙散の意となった。氷は風に融け、静かな水面は風に波立つ。散ることは滞りを解きもするが、集団をばらばらにもする。この卦が問うのは、人心と局面が散じはじめたときの身の処し方である。

卦象 象

巽上卦 · 風 · 入
坎下卦 · 水 · 陷

上卦の巽は風、下卦の坎は水であり、風が水上を吹けば水面は紋をなして広がる。巽はまた木でもあり、木が水に浮かび風を受けて進むのは舟の象である。散じる力は滞りを流し、坎の険を解きほぐすが、同時に離散の危うさも孕む。だからこそ、それを束ねる者が要る。

取象の重なり 層

一つの卦はいくつもの層で読める。八卦は一家の人々(父母・長中少の男女)、六爻は組織の位(新人から君主まで)、さらに自然現象や動物にもなる。層を一つ重ねるごとに、爻辞の意味が深まる。

一家として見る

下卦の坎は中男、上卦の巽は長女である。険に陥った息子が下に、よく連絡を取る長姉が上にいて、風のように固まった困難を吹き散らす。長女は家族の隅々まで知らせを運ぶ人である。渙の「散る」には二面がある。滞りをほぐし険を解くのはよいことだが、人心が散れば、誰かがもう一度皆をまとめねばならない。

互卦

卦辞「王、有廟に仮る」。九二・六三・六四は互震で、震は長子、諸侯である。震の彖伝は長子が「宗廟社稷を守り、以て祭主となる」という。人心が散るとき、上に立つ者は宗廟に帰って祭祀を主宰し、共通の根によって皆をつなぎ直す。

動物・取象 初爻

初六「用て拯うに馬壮んなれば吉」。下卦の坎は「美しき脊」の馬で、背が強く引く力がある。渙散が始まったばかりのとき、初六は壮んな馬を借りて早めに抜け出す。地火明夷の六二も同じ句をもち、やはり坎の底にいる。問題が顔を出したときに手を打つのがいちばん楽である。

卦変 三爻

六三「その躬を渙らす、悔なし」。渙は否から変じた卦で、六三はもと否の下卦坤のなかにいた。坤は母で、母が身ごもることを「身有り」といい、転じて自分自身を指す。陽が下ってきて坤が消え、自分が散らされる。散ったのは私心なので悔いはない。しかも上九と正応し、全卦でただ一組の応で、志は外に向かう。

君臣・爻位 四爻

六四「その群を渙らす、元吉。渙らして丘有り」。四は君主のすぐそばの大臣である。六四はもと否の坤の一員で、上がってきて自分の同類(坤)を解き、小さな仲間内を散らす。また六三・九五と互艮をなし、艮は山、散った土が集まって丘となる。近臣が派閥を解いてこそ、より大きなまとまりが生まれる。

綜卦

渙を逆さにすると水沢節になる。渙はふさがったものを散らし、節は流れるものに限りを設ける。二卦を並べて見れば、散らしたあとに節度がなければ収拾がつかなくなり、節に渙の流れがなければ硬直する。

互卦(卦)

渙の二から四爻は震、三から五爻は艮で、合わせて山雷頤となる。頤は口であり養うことである。散らすことの奥で本当に扱うべきは養いで、資源を分け与えて皆を食べさせることだ。九五の「王居を渙らす」はまさにこの意味に合う。

序卦 序

說而后散之,故受之以渙;渙者離也。

序卦伝は「説びて後これを散ず、故にこれを受くるに渙を以てす。渙とは離なり」という。前の兌(だ)は喜びの卦である。人は緊張や苦しみのなかでこそ警戒を保つが、喜べば気が緩み、心は散ってしまう。離散は喜びのあとに自然と訪れるのである。

卦辞 辭

渙:亨,王假有廟,利涉大川,利貞。

渙は、亨る。王有廟に仮る。大川を渉るに利し。貞しきに利し。

卦辞は「渙は亨る。王、有廟に仮る。大川を渉るに利あり。貞しきに利あり」。通じる。王が宗廟に至る。大河を渡るによく、正しさを固く守るによい、という意である。人が散じてゆくとき最も必要なのは利害を超えた求心力であり、古人はそれを宗廟の祭祀に求めた。祖先と子孫のあいだに自分が立っていることを思い出させるのである。「大川を渉る」は、散じることが動き出す機会でもあることを示し、「貞に利あり」は、選択肢が増えるほど原則を守れと戒める。集まる卦である萃(すい)にも同じ「王、有廟に仮る」があり、聚散いずれのときも根本に立ち返れということだ。

彖伝 彖

彖曰:渙,亨。剛來而不窮,柔得位乎外而上同。王假有廟,王乃在中也。利涉大川,乘木有功也。

彖伝は卦変で説く。渙は否(ひ)から来たもので、否の九四が下って九二となり、六二が上って六四となった。「剛来たりて窮せず」とは、閉塞した否の局面が一度の入れ替えで通じたこと、窮すれば変じ、変ずれば通ずるということである。「柔、位を外に得て上に同じ」は、位の正しい六四が九五を承けることを指す。「王乃ち中に在り」は九五、「木に乗りて功あり」は巽の木が坎の水に浮かぶ舟の象で、険を渡る功をいう。

大象 象

象曰:風行水上,渙;先王以享于帝立廟。

大象は「風、水上を行くは渙なり。先王以て帝に享し廟を立つ」。風に散る水には利も害もある。だから先王は上帝を祀り宗廟を建て、人心の帰するところを設けた。曾子の「終りを慎み遠きを追えば、民の徳厚きに帰す」のとおり、目先の損得ばかり計れば風俗は薄くなり、命の継承に思いを致せば人はおのずと厚くなる。

六爻 爻

主爻 九五は中正を得て、彖伝に「王乃ち中に在り」という。離散の時に号令を発して人心を安んずる、渙の局面の主である。九二と六四は否からの入れ替えでこの卦を成す要の爻である。

六爻の道筋:下から上へ

初六は渙散が起こったばかりのときに壮んな馬で抜け出し、早く手を打つので吉。九二は険のなかで寄りかかれる机に走り、支えを得て悔いが消える。六三は下卦の頂に至り、散らすのは自分の私心で、志を外へ向ける。上卦に入った六四は自分の仲間内を散らし、かえって丘を築く。全卦で最良の一歩である。九五は君位にあって、汗が出るように大号令を発し、王の蓄えを天下に散じる。上九は血を流す害を散らし、険から遠く離れて咎がない。

初六用拯馬壯,吉,悔亡。用て拯ふに馬壮んなり。吉にして、悔亡ぶ。
位に当たらず第4爻と応ぜず
小象 初六之吉,順也。
現代語で

救いに用いる馬は壮健であり、吉、悔いは消える。

精読

初六は陽位に陰が居て位は正しくなく、同じ陰の六四とは応じない。頼れるのはすぐ上の九二だけである。下卦の坎は険だが、坎はまた「美脊の馬」でもあり、陽剛の九二こそその健馬にあたる。小象は「初六の吉は順なり」という。散じはじめに我を張らず、力ある者に従うから吉なのである。

もう一層深く
動物・取象

初六「用て拯うに馬壮んなれば吉」。下卦の坎は「美しき脊」の馬で、背が強く引く力がある。渙散が始まったばかりのとき、初六は壮んな馬を借りて早めに抜け出す。地火明夷の六二も同じ句をもち、やはり坎の底にいる。問題が顔を出したときに手を打つのがいちばん楽である。

この爻を得たら

事がほころびはじめた段階である。独りで抱え込まず、頼れる助けに素直に従い、早めに手を打つとよい。

九二渙奔其机,悔亡。渙のとき其の机に奔る。悔亡ぶ。
位に当たらず中を得る第5爻と応ぜず
小象 渙奔其机,得愿也。
現代語で

散じるなかで、寄りかかれる几(つくえ)へと走る。悔いは消える。

精読

九二は陰位に陽が居て位は正しくないが中を得ている。同じ陽の九五とは応じず、本来なら悔いがある。もとは否の九四で初六と正応していたが、下ってきて今は初六と隣り合う。低く伏す初六は、もたれかかれる低い几のようである(「机」は「几」)。小象は「願いを得るなり」という。旧い場所を離れ、身を寄せる拠りどころを得たのである。

この爻を得たら

局面が乱れるときは、まず確かな足場と信頼できる身近な相手を見つけることだ。落ち着けば、悔いはおのずと消えてゆく。

南郭子綦、机に隠りて坐す

『荘子』斉物論の冒頭、南郭子綦は「机に隠りて坐し、天を仰ぎて嘘す」。傍らに侍る弟子の顔成子游は驚いて問う。形はまことに枯れ木のように、心は死灰のようになりうるのか、今日机にもたれる師は昔の師ではない、と。「隠」はもたれることで、古人は坐るとき几に身を預けた。槁木死灰を無感動のすすめと読む人は多いが、実は身体や俗念を手放したところで精神が現れ、道と通じはじめる境地を描いている。九二が几に駆け寄って一息つくのも、散乱のなかで心を落ち着ける拠りどころを得ることと読める。

《莊子・齊物論》
六三渙其躬,无悔。其の躬を渙らす。悔无し。
位に当たらず第6爻と応ず剛に乗る
小象 渙其躬,志在外也。
現代語で

自分自身へのこだわりを散じる。悔いはない。

精読

六三は陽位に陰が居て位は正しくなく、本来なら悔いがある。「躬」は自分自身のこと。否のときは下卦が坤で母であり「身ごもる」象があったが、渙では坤が散じ、いわば自我が散らされた。全卦で初と四、二と五はいずれも応じないなか、六三と上九だけが正応している。小象に「志、外に在るなり」とあり、志が外へ上へと向かうから「悔い无し」となる。「悔い无し」は初めから悔いる必要がないことで、悔いてから消える「悔亡ぶ」とは違う。

もう一層深く
卦変

六三「その躬を渙らす、悔なし」。渙は否から変じた卦で、六三はもと否の下卦坤のなかにいた。坤は母で、母が身ごもることを「身有り」といい、転じて自分自身を指す。陽が下ってきて坤が消え、自分が散らされる。散ったのは私心なので悔いはない。しかも上九と正応し、全卦でただ一組の応で、志は外に向かう。

この爻を得たら

自分の損得勘定を手放し、本当に打ち込むに値する人と目標に力を注ぐとよい。人と比べてみれば、足るを知ることもできる。

六四渙其群,元吉。渙有丘,匪夷所思。其の群を渙らす。元いに吉。渙らして丘有り。夷の思ふ所に匪ず。
位に当たる第1爻と応ぜず
小象 渙其群,元吉;光大也。
現代語で

自分の仲間内を散じる。大いに吉。散じた後に丘をなす。常人の思い及ぶところではない。

精読

六四は陰位に陰が居て位正しく、九五を承ける。初六とは応じない。もとは否の下卦坤のなかの六二で、上ることで下の三陰の群れを散じた。だから「其の群を渙す」という。上卦に至ると六三・九五と互艮をなし、艮は山、土が集まって丘となる。先に散じて後に集まり、規模はかえって大きい。小象は「光大なり」という。「匪夷所思」の「匪」は「非」、「夷」は常のことで、もとは思いがけない善事をいった。今日の、奇怪な発想を評する用法とは異なる。

もう一層深く
君臣・爻位

六四「その群を渙らす、元吉。渙らして丘有り」。四は君主のすぐそばの大臣である。六四はもと否の坤の一員で、上がってきて自分の同類(坤)を解き、小さな仲間内を散らす。また六三・九五と互艮をなし、艮は山、散った土が集まって丘となる。近臣が派閥を解いてこそ、より大きなまとまりが生まれる。

この爻を得たら

閉じた小集団や派閥を解き、より大きな公のために結び直すのによい時である。居心地のよい旧い輪にしがみつかないこと。

九五渙汗其大號,渙王居,无咎。渙のとき其の大号を汗にす。渙のとき王居る。咎无し。
主爻位に当たる中を得る第2爻と応ぜず
小象 王居无咎,正位也。
現代語で

大いなる号令を汗のごとく四方に散ずる。号令を発し、王はその居に安んずる。咎なし。

精読

九五は陽位に陽が居て中正を得た、渙の君位である。同じ陽の九二とは応じないが、小象に「王居りて咎なきは、位正しければなり」とあり、位の正しさで咎を免れる。上卦の巽は風であり号令でもある。下には坎の水があって、風は水上を四方に行き渡り、号令もまたあまねく届く。漢の劉向は、汗は一度出れば戻らないように、号令も発すれば取り消せないと読んだ。

この爻を得たら

人心が散じるときには、明快で公正で、しかも守られる方針が要る。その位にあるなら、方向を示し皆を落ち着かせる責任を引き受けよ。一度口にしたことは取り消せない。

財を散じ粟を発すと法三章

人心が離れたとき、病根を突いた一つの号令が天下を再び束ねる。殷の民は苛斂に苦しんでいたので、武王は殷に勝つと「鹿台の財を散じ、鉅橋の粟を発し」て貧しい者を救った(『史記』周本紀)。秦の民は苛酷な法に苦しんでいたので、劉邦は関中に入ると父老を集めて秦の法を除き、「法三章を約す」のみとした。人を殺す者は死し、人を傷つけ及び盗む者は罪に抵る、と。秦の人々は大いに喜んだ(『史記』高祖本紀)。財を散じるにせよ法を緩めるにせよ、いずれも症状に応じた「大号」であった。

《史記・周本紀》、《史記・高祖本紀》
上九渙其血,去逖出,无咎。其の血を渙らし、去りて逖く出づ。咎无し。
位に当たらず第3爻と応ず
小象 渙其血,遠害也。
現代語で

血の災いを散じ、去って遠く出る。咎なし。

精読

上九は陰位に陽が居て位は正しくなく、六三と正応する。だが六三は下卦の坎のなかにあり、坎は険であり血の卦である。それが頼ってくれば、上九も巻き込まれかねない。上九は渙の極み、卦の最も外にあり、散じる勢いに乗って身を引くことができる。小象は「害に遠ざかるなり」という。時を逃さず離れれば、禍いとのあいだに距離が生まれる。

この爻を得たら

深く絡みつく争いや危うい局面からは、正面からぶつからず、早めに身を引いて距離を保つことだ。離れること自体が解決になる。

合わずとも、離れられる

夫の母との長年の不和に疲れ、離婚すべきか迷っていた女性が占って、渙の九五と上九が動く卦を得た。上九「其の血を渙し、去りて逖く出づ」は、苦しい境遇ながら転機に来ていることを示す。之卦の師(し)は、無理に決裂すれば家庭内の戦争になりかねないと告げていた。彼女は子どもの進学まで待つことにした。普段は別の土地に住んでいるので、反りが合わなくとも距離は取れる。これが「害に遠ざかる」の広い意味である。決裂だけが道ではなく、退いて間を置けば双方の傷を避けられる。

書き下し文は本サイトによる。明治・大正期の公有訓読(漢文叢書『詩経書経易経』1922年、国立国会図書館デジタルコレクション)と照合した。

故事 典

木を刳りて舟と為す

『繫辞下伝』は古の聖人が器物を創ったことを述べ、「木を刳りて舟と為し、木を剡りて楫と為す。舟楫の利、以て通ぜざるを済し、遠きを致して以て天下を利す。蓋し諸を渙に取る」という。幹をくり抜いて舟を、木を削って櫂を作れば、水に隔てられていた土地が結ばれ、遠方の人と物が行き交う。卦象では巽は木であり風、坎は水、さらに九二・六三・六四が互震をなして行くことを表す。水に浮かび風に動く木、すなわち進む舟である。彖伝の「木に乗りて功あり」はまさにこれだ。ここでの渙は崩壊ではなく、隔たりを解いて天下を通わせることである。

《周易・繫辭下傳》

終りを慎み遠きを追う

『易』で「王、有廟に仮る」というのは二卦だけ、集まる萃と散じる渙である。人が集まり散じる時には利害が最も露わになり、人心は計算だけになりやすい。社会が激変し人々が次々と移り住んでゆく時、去る者もあれば残って様子を見る者もあり、誰もが損得を量る。古人の答えは祭祀であった。人は祖先を承け子孫へ渡す存在であって、孤立した個人ではないと思い出させるのである。『論語』学而篇で曾子は「終りを慎み遠きを追えば、民の徳厚きに帰す」という。風俗の厚薄は一人二人の手本で変わるものではなく、皆が自らの来し方行く末に敬意を抱くことにかかっている。

《論語・學而》

人生への示唆 悟

喜びのあとには気が緩み、離散はしばしば順境のなかで静かに始まる。散じることそれ自体に善悪はない。滞りを流すこともあれば集団を瓦解させることもあり、分かれ目は目先の利害を超えた共通の根を見いだせるかどうかにある。渙の六爻には一つも「凶」の字がない。聚散は世の常であり、誰に頼り、何を手放し、いつ去るかを知れば、険を夷に転じられる。最上の吉は、狭い私的な群れを散じて、より大きな形に組み直すことである。

関連する卦 通