遯
33 / 64 · 下経
遯天山遯(てんざんとん)
身は退き道は通ず、時宜にかなって潔く
退避時と与に行く悪まずして厳

卦名 名

「遯」の字は、中に子豚を表す「豚」があり、そこに歩行を表す辶が添えられている。飼っていた豚が逃げ出したさまで、「遁」とも書き、退くこと、避けることをいう。易は多く君子の側から卦を名づけ、ここで退いて行くのは上の陽爻である。

卦象 象

乾上卦 · 天 · 健
艮下卦 · 山 · 止

上の乾は天、下の艮は山で、天の下に山がある。下の二陰が手を携えて上り、上の四陽は順に退いて行く。陽爻がまだ四つあるから強いと思ってはならない。見るべきは数ではなく趨勢である。遯は十二消息卦の一つで、夏暦六月にあたる。なお暑いが陰気はひそかに上り、夏は終わろうとしている。

取象の重なり 層

一つの卦はいくつもの層で読める。八卦は一家の人々(父母・長中少の男女)、六爻は組織の位(新人から君主まで)、さらに自然現象や動物にもなる。層を一つ重ねるごとに、爻辞の意味が深まる。

一家として見る

下卦の艮は少男、上卦の乾は父である。艮のなかの二つの陰爻は下から伸びつつあり、若い世代の勢いが少しずつ上がってくる。父のいる四つの陽爻は一歩ずつ退いていく。追い出されるのではなく、年長者が流れを見きわめ、時を逃さず席を譲るのである。見事に退くこと自体が一つの修養だ。

動物・取象 二爻

六二「これを執うるに黄牛の革を用う、これを説くに勝うるなし」。黄は中央の色、牛は坤の柔順に由来し、革は丈夫な皮である。六二・九三・九四は互巽で、巽は縄、艮は手である。中正を守る者が、最も固いやり方で九五のそばに身を結びつけ、たやすく離れない。

君臣・爻位 三爻

九三「係りて遯る、疾有りて厲うし、臣妾を畜うには吉」。三は下卦の頂、板挟みの中間管理職で、退こうとしても下の二陰に引き止められる。この未練は大事を決めるには向かず、身近な家人や部下の世話にだけ向く。辞めたいのにチームを手放せない人のように、長引くほど疲れていく。

互卦 四爻

九四「好んで遯る、君子は吉、小人は否らず」。九四は上卦の乾に入り、去ろうと思えば去れる力がある。だが初六と正応し、六二・九三・九四の互巽、すなわち進退果たさずの卦のなかにいるので、名残を惜しむ。君子は全体の形勢を見てさっぱりと去る。小人は目先の得だけを見て、下卦艮の「止」にはまり動けなくなる。

君臣・爻位 上爻

上九「肥かに遯る、利しからざるなし」。上爻はすでに官職の外にあり、下とのしがらみもないので、最もゆとりをもって自在に退く。早くに引き継ぎを整え、心安らかに引退する人のように、進退に少しの無理もない。

綜卦

遯を逆さにすると雷天大壮になる。同じ四陽二陰が、遯では退き、大壮では進む。「序卦伝」は、ものは終に遯るべからず、ゆえに大壮を受くという。今日退くのは、のちに再び盛んになる力を残すためである。また見方を変えれば、自分の退場は他人の登場でもある。

互卦(卦)

遯の二~四爻は巽、三~五爻は乾で、合わせて天風姤となる。一陰が初めて生じる、思いがけない出会いである。退避の内なる起点は、その小さな出会いにある。陰の気が戸口に入ったと気づいたときこそ、退路を考え始めるべき時だ。

序卦 序

物不可以久居其所,故受之以遯;遯者退也。

「序卦伝」は「物は以て久しく其の所に居るべからず、故に之を受くるに遯を以てす。遯とは退なり」という。恒は長久を説いたが、いかなるものも一つの場所を永遠に占めることはできない。だから次に退く。退いてこそ再び進める。屈伸往来の道理である。

卦辞 辭

遯:亨。小利貞。

遯は、亨る。小しく貞しきに利し。

卦辞は「遯は亨る。小は貞しきに利あり」という。退けば通じ、小なるものは正しく固く守るがよい。退くのになぜ亨るのか。「遯れて後に亨る」からである。退くのは身であり、通じるのは己の道だ。形勢の悪いときに身を避けてこそ、自らを保ち原則を守れる。「小」は下の陰爻を指し、急いで上へ迫らず本分を守れと望むのである。

彖伝 彖

彖曰:遯亨,遯而亨也。剛當位而應,與時行也。小利貞,浸而長也。遯之時義大矣哉!

「彖伝」はいう。遯れて亨るのは、九五が「剛にして位に当たりて応じ」、陽剛が正位にいて六二と応じ、「時と与に行く」からだと。「小は貞しきに利あり、浸くにして長ずればなり」、陰はじわじわと伸びているので、急がず緩やかであるべきだ。そして「遯の時義大いなるかな」と嘆ずる。いつ退き、いかに退くか、その時機の意義はまことに重い。

大象 象

象曰:天下有山,遯;君子以遠小人,不惡而嚴。

「大象」は「天の下に山あるは遯なり。君子以て小人を遠ざけ、悪まずして厳なり」という。小人を遠ざけるが憎まず、ただ厳粛に接する。妥協も愛想もしないが、相手を追い詰めもしない。孔子は「人にして不仁なる、之を疾むこと已甚だしければ乱る」といった。憎みすぎればかえって乱を招く。道を外れた者にもそれなりの事情がある。憎む必要はないが、付き合う必要もない。

六爻 爻

主爻 六二は卦を成す主爻で陰の上昇の勢いを表すが、中正にして固く守る。九五は「彖伝」が「剛にして位に当たりて応ず」と称える爻である。二と五が応じ合うことで、全卦の退きは乱れない。

六爻の道筋:下から上へ

初六は「遯る尾」で、退く隊列の最後尾にあり、遅れるほど危うく、この時はほかに動かないほうがよい。六二は黄牛の革で自らをその場に結びつけ、九五への忠誠を変えない。九三は下卦の頂で、去りたいのに部下や家の者に引き止められ、心の病になる。九四は上卦に入り、さっぱりと去る力を持つ。君子か小人かで結果が分かれる。九五は「嘉く遯る」で、位にある者が最もよい時に、ふさわしい形で退く。上九の「肥かに遯る」に至れば、すっかり局外にあって自在である。

初六遯尾,厲,勿用有攸往。遯の尾なり。厲ふし。往く攸有るに用ふる勿れ。
位に当たらず第4爻と応ず
小象 遯尾之厲,不往何災也。
現代語で

遯るるに尾たり。厲うし。往く攸あるに用うる勿れ。

精読

退く方向は上で、上のものから先に去る。初六は最下にあって隊列の尾であり、機を見るのが最も遅く、危地に深く陥っている。陰爻が陽位にいて正しくなく、九四と正応するが、性は穏やかで地位も低いから身を潜めやすい。小象は「往かずんば何の災いあらん」という。動かなければ災いはない。

この爻を得たら

気づくのが遅れ受け身にあるなら、取り繕おうと急いだり表に出たりしないこと。慎んで身を低くすれば禍は免れる。

六二執之用黃牛之革,莫之勝說。之を執ふるに黄牛の革を用ふ。之を説くに勝ふる莫し。
主爻位に当たる中を得る第5爻と応ず
小象 執用黃牛,固志也。
現代語で

之を執うるに黄牛の革を用う。之を説くに勝うるもの莫し。

精読

六二は陰爻が陰位にいて中正、九五と正応するから、安定して動かぬべきである。取象は細やかだ。黄は中の色で中位にかなう。牛は坤で、六二がもう一歩上れば下卦は坤となる。艮は皮膚・皮革であり手でもある。六二から九四は互巽で縄。合わせれば手に黄牛の革紐を執ってしっかり縛る形となる。「説」は「脱」に通じる。小象は「志を固くするなり」という。固く守るのは九五を支える心である。

もう一層深く
動物・取象

六二「これを執うるに黄牛の革を用う、これを説くに勝うるなし」。黄は中央の色、牛は坤の柔順に由来し、革は丈夫な皮である。六二・九三・九四は互巽で、巽は縄、艮は手である。中正を守る者が、最も固いやり方で九五のそばに身を結びつけ、たやすく離れない。

この爻を得たら

位置はふさわしく、頼れる上の人とも応じている。人に倣って退く必要はない。志を固め、局面を落ち着かせること。

九三係遯,有疾厲,畜臣妾吉。係れる遯なり。疾有りて厲ふし。臣妾を畜ふには吉。
位に当たる第6爻と応ぜず
小象 係遯之厲,有疾憊也。畜臣妾吉,不可大事也。
現代語で

係れる遯。疾ありて厲うし。臣妾を畜えば吉。

精読

九三は陽爻が陽位にいて正しく、二陰のすぐ上に接して真っ先にぶつかり、それに引き留められる。だから「厲」である。上九も陽爻で応ぜず、支えがない。これが「疾」で、小象は「疾ありて憊るるなり」という。「臣妾」は昔の家の下男下女のことだ。退く勢いを止められぬとき、大事を成そうとする思いを捨て、身近な人と家のことを顧みればかえって吉。小象ははっきり「大事に可ならず」という。

もう一層深く
君臣・爻位

九三「係りて遯る、疾有りて厲うし、臣妾を畜うには吉」。三は下卦の頂、板挟みの中間管理職で、退こうとしても下の二陰に引き止められる。この未練は大事を決めるには向かず、身近な家人や部下の世話にだけ向く。辞めたいのにチームを手放せない人のように、長引くほど疲れていく。

この爻を得たら

しがらみに縛られ支えもないときは、大事にも名声にも手を出さないこと。身近に戻り、家族と日々の暮らしを大切にする。

九四好遯君子吉,小人否。好みて遯る。君子は吉、小人は否らず。
位に当たらず第1爻と応ず
小象 君子好遯,小人否也。
現代語で

好き遯。君子は吉、小人は否がる。

精読

九四はすでに上卦の乾に入り、力があり大勢も見通せるから、去ろうと思えば去れる。だが陽爻が陰位にいて正しくなく、下の初六と正応して名残を惜しみ、しかも互巽の中にあって、巽は進退を決めかねる卦だ。君子は全局を量り、去るべきときに潔く去る。小人は古い縁の利ばかりを見て、下卦艮の「止」に引き戻される。小象は「君子は好く遯れ、小人は否がる」という。同じ境遇が修養の高下を分ける。

もう一層深く
互卦

九四「好んで遯る、君子は吉、小人は否らず」。九四は上卦の乾に入り、去ろうと思えば去れる力がある。だが初六と正応し、六二・九三・九四の互巽、すなわち進退果たさずの卦のなかにいるので、名残を惜しむ。君子は全体の形勢を見てさっぱりと去る。小人は目先の得だけを見て、下卦艮の「止」にはまり動けなくなる。

この爻を得たら

退くべきときは潔く鮮やかに退くこと。古い縁や目先の利に足を取られない。舞台を降りるにも品がいる。

九五嘉遯,貞吉。嘉く遯る。貞にして吉。
主爻位に当たる中を得る第2爻と応ず
小象 嘉遯貞吉,以正志也。
現代語で

嘉き遯。貞にして吉。

精読

九五は陽爻が陽位にいて中正、六二と正応する。下からの陰の迫りはまだ遠いが、早くから時勢を見抜き地位に恋々とせず、それでいて目の前の務めは手放さない。「好」から「嘉」へ、退き方の品格は一段高まる。小象は「以て志を正しくするなり」といい、六二の「志を固くす」と呼応する。六二は九五の志を固く守り、九五は自らの志を正す。

この爻を得たら

状況がまだよいうちに退き際を描き、渡すべきときには渡す。だが在任の一日は、その日の務めを果たすこと。

上九肥遯,无不利。肥かに遯る。利しからざる无し。
位に当たらず第3爻と応ぜず
小象 肥遯,无不利;无所疑也。
現代語で

肥き遯。利しからざる无し。

精読

「肥」は「飛」に通じ、高く飛び去る退きである。上九は最上にあり、五・上は天位、上卦の乾も天で、広々と開けて遮るものがない。陽爻が陰位にいて九三と応ぜず、何の未練もない。だから小象は「疑う所なし」という。九四の「好遯」、九五の「嘉遯」から上九の「肥遯」へ、上に行くほど退き方は軽やかになる。

もう一層深く
君臣・爻位

上九「肥かに遯る、利しからざるなし」。上爻はすでに官職の外にあり、下とのしがらみもないので、最もゆとりをもって自在に退く。早くに引き継ぎを整え、心安らかに引退する人のように、進退に少しの無理もない。

この爻を得たら

何の縛りもないなら、安心して手放し去ること。去ることは終わりではない。舞台を変えて、また巡ってくる。

退職を前にした一卦

退職を控え先行きに不安を抱く人が、遯の上九「肥き遯、利しからざる无し」を得た。遯は上の陽爻が一つずつ退いて行く卦で、上九は真っ先に去る。まさに退職にふさわしい。「肥」を「飛」と読めば、最上の位から遠く飛び去る意となる。務めを離れて身軽になり、暮らしを組み立て直し各地を巡る。天を楽しみ命を知る姿である。退職者でない人がこの爻を得たなら、退くことで進む、という意味になる。

書き下し文は本サイトによる。明治・大正期の公有訓読(漢文叢書『詩経書経易経』1922年、国立国会図書館デジタルコレクション)と照合した。

故事 典

孟子と王驩:悪まずして厳

孟子は斉で卿の位にあり、命を受けて滕へ弔問に赴いた。斉王は寵臣の蓋の大夫王驩を副使として同行させた。王驩は朝夕孟子に会いに来たが、斉と滕を往復する道中、孟子は使いの事について一度も彼と語らなかった。弟子の公孫丑がたまらず問う。斉の卿の位は小さくなく、斉と滕の道も近くない。それなのに公事を語らなかったのはなぜか、と。孟子は「夫れ既に或るひと之を治む、予何をか言わんや」と答えた。すでに取り仕切る者がいるのに、私が何を言うことがあろう。仲違いもせず非難もしないが、うわべの付き合いも決してしない。これこそ遯卦の「小人を遠ざけ、悪まずして厳」である。

《孟子・公孫丑下》

退歩は原来是れ向前

五代の布袋和尚の作と伝えられる田植えの詩に、「手に青秧を把りて田に挿し満たし、頭を低れて便ち見る水中の天。心地清浄なるは方に道と為す、退歩は原来是れ向前」とある。田植えをする者は苗を挿しながら後ろへ下がり、下がりきったとき田一面が植わっている。遯卦の理もここにある。退くことは敗北ではなく、次の一歩のための蓄えであり、高く跳ぶ前にしゃがむのと同じだ。退く時機と姿を知れば、退くこと自体が前進となる。

布袋和尚插秧詩(相傳)

人生への示唆 悟

遯卦の六爻には「凶」の字が一つもなく、四爻が吉あるいは「利しからざる无し」を明言する。実はよい卦であり、要は時機を知ることにある。数だけでなく趨勢を見よ。早く見抜くほど退き方は落ち着く。退くのは身であって道ではない。地位に恋々とせず、恨まず、小人に妥協もせず憎みもしない。同じ境遇でも、潔く退く者と私利に囚われる者がいる。差を生むのは修養と選択だ。仕うべくして仕え、止むべくして止む。進退を時にかなわせること自体が一つの智慧である。

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