卦名 名
履(り)はもと履物を指し、そこから足・歩むこと、さらに世に処する実践の意となった。〈序卦伝〉は「履とは礼なり」といい、《説文》も「礼は履なり、神に事えて福を致す所以なり」という。「禮」の字は左が「示」で祭祀や神明にかかわり、右の「豊」は供物を盛った祭器である。礼とは人が世を歩む正しい方法と態度であり、儀礼・礼節・礼儀のすべてを含む。
卦象 象


上卦は乾(天)、下卦は兌(沢)。天は上に沢は下に、それぞれ所を得て秩序が整う。沢は静かで深くない水で、急流とは違い、上下がすでに落ち着いたことを表す。五陽一陰の卦で、柔弱な六三が上の剛健な乾のすぐ後ろを歩む姿は、虎の尾を踏むに等しい。乾は君でもあり、「君に伴うは虎に伴うが如し」である。兌はまた和悦で、剛に和やかに応じること、それがすなわち礼である。
取象の重なり 層
一つの卦はいくつもの層で読める。八卦は一家の人々(父母・長中少の男女)、六爻は組織の位(新人から君主まで)、さらに自然現象や動物にもなる。層を一つ重ねるごとに、爻辞の意味が深まる。
一家として見る
下卦の兌は少女、上卦の乾は父である。末の娘が父の後ろを歩み、父は剛く威厳があって虎のようだ。乾はまた君であり、「君に伴うは虎に伴うがごとし」という。少女が頼むのは和やかさと礼儀である。これが履で、柔らかく礼ある態度で強者のそばを歩き、噛まれずにすむ。
六三「眇にして能く視、跛にして能く履む。虎の尾を履む、人を咥む」。九二・六三・九四は互離で目、六三・九四・九五は互巽で股である。下卦の兌は毀折なので、目も脚も損なわれている。よく見えないのに見えると思い、脚が悪いのに無理に歩く。唯一の陰爻が無謀に進み、虎に噛まれる。
九二「道を履むこと坦坦たり、幽人貞にして吉」。二は朝廷を離れ外で務める者の位である。九二は互離(目)のなかにあり、兌(欠け)にも属するので、暗がりにいる「幽人」となる。上の九五と争わず、平らな本分に安んじて、かえって吉となる。
九四「虎の尾を履む。愬愬たり、終に吉」。四は王のすぐそばの近臣で、虎に最も近い。六三と同じく虎の尾を踏むが、九四は恐れ慎み一歩ずつ気をつけるので、最後には吉となる。権力に近いほど、この慎みが要る。
履の六爻をすべて変えると地山謙になる。履は強者のそばで礼を守ること、謙は自ら山のような力を持ちながら地の下に隠すことである。前者は外への礼、後者は内の修養である。本当に謙虚な人は、虎のそばを歩いても礼を失わない。
序卦 序
物畜然後有禮,故受之以履。
〈序卦伝〉に「物畜えられて然る後に礼有り、故に之を受くるに履を以てす」。蓄えができてはじめて人は礼を重んじる。「衣食足りて栄辱を知る」である。飢えた者に礼儀を説いても、食卓につけば奪い合うだけだろう。衣食が満ちてこそ、社会は秩序と規範を必要とし、また築くことができる。
卦辞 辭
履虎尾,不咥人,亨。
虎の尾を履むも、人を咥はず。亨る。
卦辞は「虎の尾を履むも、人を咥わず。亨る」。虎の尾を踏んでも虎は噛まない。なぜか。礼を守り、恭しく振る舞うからである。注目すべきは「亨」が最後に置かれていることだ。小畜は冒頭に亨と言うが、履はまず慎重に正しく歩んではじめて道が通じる。通達は前提ではなく結果なのである。
彖伝 彖
彖曰:履,柔履剛也。說而應乎乾,是以履虎尾,不咥人,亨,利貞。剛中正,履帝位而不疚,光明也。
〈彖伝〉に「履は柔、剛を履むなり」。柔弱な者が礼をもって剛強な者に接し、下の兌の和悦が上の乾の剛健に応じるから、虎の尾を踏んでも噛まれない。「笑顔に振り上げる拳なし」の理である。また九五は剛にして中正、帝位を履んで疚しからず、光明であるという。二三四の互卦・離が光明の出どころだ。
大象 象
象曰:上天下澤,履;君子以辨上下,定民志。
〈大象〉に「上は天、下は沢なるは履なり。君子以て上下を弁じ、民の志を定む」。君子はここに学んで上下の分を明らかにし、民の心を安んじる。古代は職位によって衣服や住居に定めがあり、どれほど富んでも龍袍を私に作ることはできなかった。分が明らかなら人は為すべきことを知り、心は落ち着く。ここの「志」は心のありようであって、志望の意ではない。
六爻 爻
主爻 六三は唯一の陰爻で成卦の主だが、陰が陽位にあって力弱く不当位、全体を支えきれない。主爻であることと吉凶に必然の関係はないのである。九五は剛健中正で、〈彖伝〉が「帝位を履みて疚しからず」と称える尊位である。
六爻の道筋:下から上へ
初九「素履にして往く」。歩み出したばかりで、質素な履物で本分どおりに歩み、問題はない。九二は平らな道を静かに中を守って歩み、吉である。下卦の頂の六三は力が足りないのに無理に進み、虎の尾を踏んで噛まれる。しかも大君のための武人を気取って分を越える。上卦に入ると、九四も同じ虎に出会うが、慎重なので終に吉。九五は君位で決断するが、剛い決断にも危うさがあると心得ねばならない。上九は歩んできた足跡を振り返り、それが周到であれば大吉である。
初九素履,往无咎。素履にして往けば咎无し。
現代語で
素履す。往けば咎なし。
精読
初九は陽が陽位にあって当位、動く力がある。だが九四とは陽同士で応じず、六三とも関わりがなく、独りで進むほかない。「素」は飾らぬ地のままの意。小象の「独り願いを行うなり」とは、位は低くとも煩わしい礼文にこだわらず、普段のままに心の願いを実行すればよいということだ。
この爻を得たら
歩み始めの今は、自分を飾ったり作為を凝らしたりする必要はない。素のまま着実に目の前のことをこなせば、誤ることはない。
九二履道坦坦,幽人貞吉。道を履むこと坦坦たり。幽人貞にして吉。
現代語で
道を履むこと坦坦たり。幽人は貞にして吉。
精読
九二は陽が陰位にあって不当位、九五とも応じないが、下卦の中を得る。この爻が変じれば下卦は震となり、震は大塗(大道)だから道は坦坦たり。「幽人」には二重の象がある。下の兌は沢で、沢に隠れ住む人。二三四の互卦・離は目で兌の欠けを帯び、全局をよく見通せない人でもある。小象の「中して自ら乱れざるなり」は、中道を守り心を乱さなければ、要職になくとも無事に歩めることをいう。
もう一層深く
九二「道を履むこと坦坦たり、幽人貞にして吉」。二は朝廷を離れ外で務める者の位である。九二は互離(目)のなかにあり、兌(欠け)にも属するので、暗がりにいる「幽人」となる。上の九五と争わず、平らな本分に安んじて、かえって吉となる。
この爻を得たら
道そのものは歩みやすいが、全体が見えていないことが問題だ。控えめに平静を保ち、原則を守って無理強いも逃げもせず、状況を明らかにする手立てを探れ。
六三眇能視,跛能履,履虎尾,咥人,凶。武人為于大君。眇にして能く視、跛にして能く履む。虎の尾を履みて、人を咥ふ。凶。武人大君と為る。
現代語で
眇にして能く視るとし、跛にして能く履むとす。虎の尾を履みて人を咥う、凶。武人、大君と為る。
精読
六三は主爻だが、陰が陽位にあって不当位、しかも九二の剛に乗る。上九と正応し五陽に囲まれて、自信過剰になっている。二三四の互卦・離は目、三四五の互卦・巽は股で、いずれも下の兌の毀折の中にある。ゆえに目を病み、足も跛である。下卦の端にあり、一歩踏み出せば乾にぶつかる。まさに虎の尾を踏むのだ。小象は一つずつ見抜く。視るは「以て明有るに足らず」、歩むは「以て与に行くに足らず」、咬まれるのは「位当らざる」ゆえ、大君たらんとするのは「志剛」ゆえと。「武人、大君に為す」を武人が大君に仕えると読む説もあり、そうするなら道は残されている。
もう一層深く
六三「眇にして能く視、跛にして能く履む。虎の尾を履む、人を咥む」。九二・六三・九四は互離で目、六三・九四・九五は互巽で股である。下卦の兌は毀折なので、目も脚も損なわれている。よく見えないのに見えると思い、脚が悪いのに無理に歩く。唯一の陰爻が無謀に進み、虎に噛まれる。
この爻を得たら
自分を買いかぶり、周囲の強者を侮っているかもしれない。順調が続いたからといって分を越えてよいわけではない。すぐに身を引き締めて本分に戻り、ふさわしい人のために力を尽くせ。
陪臣、国命を執る——陽虎
春秋時代、魯の君主は実権を失い、孟孫・叔孫・季孫の三家が国政を握り、なかでも季氏が最も強かった。季氏の家臣陽虎は逆に季氏を支配し、当主の季桓子を拘束するに至り、一時は魯の政局を操った。陽虎は孔子を出仕させようとしたが、孔子は言葉を濁して最後まで応じなかった。のちに陽虎は季桓子を殺して三桓に取って代わろうと謀ったが失敗し、斉へ、最後は晋の趙氏のもとへ亡命した。孔子は「陪臣国命を執れば、三世にして失わざること希なり」と言う。家臣が主の上に立とうとする姿は、まさに六三の「武人、大君と為る」である。
九四履虎尾,愬愬終吉。虎の尾を履む。愬愬たれば終には吉。
現代語で
虎の尾を履む。愬愬たれば終に吉。
精読
九四は陽が陰位にあって不当位、初九とは応じず、下の六三も頼れない。上の乾に入ったばかりで、自らが虎の尾の位置にあり、六三と同じく「虎の尾を履む」。《易経》の重ねられた象である。「愬愬」は恐れて震えるさま。小象の「志行わるるなり」は、心は前へ進むことにあるということ。吉には条件がある。恐れを知るからこそ渡りきれるのであり、驕ればその吉は消える。
もう一層深く
九四「虎の尾を履む。愬愬たり、終に吉」。四は王のすぐそばの近臣で、虎に最も近い。六三と同じく虎の尾を踏むが、九四は恐れ慎み一歩ずつ気をつけるので、最後には吉となる。権力に近いほど、この慎みが要る。
この爻を得たら
危うい立場で強者のそばにいる今、恐れ慎む心こそが身を守る。前進を続けよ。ただし一歩ごとに注意を払い、決して気を緩めてはならない。
九五夬履,貞厲。夬めて履む。貞なれども厲ふし。
現代語で
夬履す。貞なれども厲うし。
精読
九五は陽が陽位にあって中正、九二とは陽同士で応じない。「夬」は「決」に通じ、剛く決然とすること。大権を握り、周りは陽ばかりで陰は六三一つ、つい決断が過ぎて人に余地を残さなくなる。小象の「位正しく当るなり」とは、位が正しく権勢が確かだからこそ、かえって我意に陥りやすいということだ。程頤の意は、至尊の位にあって剛決をほしいままにし、何も畏れなくなれば、行いが正しくとも危うい道だ、というにある。
この爻を得たら
権限も理もある。だからこそ自制が要る。決断には余地を残し、異なる声に耳を傾け、独断で突き進んではならない。
上九視履考祥,其旋元吉。履を視て祥を考ふ。其れ旋れば元いに吉。
異文 「考祥」は、一本に「詳」に作る。
現代語で
履むを視て詳らかに考う。其れ旋れば元吉。
精読
上九は陽が陰位にあって不当位だが、六三と正応する。《易》で「慶」というのは多く陰陽の相応を指すから、小象は「元吉にして上に在り、大いに慶有るなり」という。「考詳」は多くの版本で「考祥」に作り、祥は吉凶禍福の兆しで、吉だけを指すのではない。履卦の終点で、一歩一歩礼に依って歩んできた道を振り返る。それがすなわち元吉である。三十二の上九のうち元吉はこの一爻のみ。礼は終始一貫せねばならず、初めは丁重で終わりは粗略、では成り立たない。
この爻を得たら
締めくくりや振り返りの時である。歩んできた道の得失を丁寧に見直し、尽くすべき礼を最後まで果たせ。よく終えること自体が最良の結果なのだ。
書き下し文は本サイトによる。明治・大正期の公有訓読(漢文叢書『詩経書経易経』1922年、国立国会図書館デジタルコレクション)と照合した。
故事 典
曾子、手足を啓く
曾子は重い病の床に弟子を呼び、「予が足を啓け、予が手を啓け」と言って、手足が損なわれていないのを見せた。そして《詩》の「戦戦兢兢として、深淵に臨むが如く、薄氷を履むが如し」を引き、今からはようやく毀傷を免れたと知る、と言った。儒家は父母から受けた身体を損なわぬことを孝とした。曾子は生涯慎み続け、臨終に至ってはじめて心を緩めたのである。これこそ履卦の精神だ。虎の尾を踏んでも噛まれないのは一歩もおろそかにしない慎みのゆえであり、最後に振り返ってはじめて「其れ旋れば元吉」となる。
家を出たい娘
母と同居してきたある女性が、独立して家を出て、母の世話を兄夫婦に任せたいと考えた。兄は賛成したが、母は反対した。占うと履卦六三「虎の尾を履みて人を咥う、凶」を得た。一陰で五陽を支える卦であり、彼女が疲れているのはもっともだ。だが母の意に逆らうのは虎の尾を踏むに等しい。助言は、計画をしばらく脇に置いて数か月後に改めること、そして上九「履むを視て考え、其れ旋れば元吉」を参照することだった。家のことに明快な正誤はない。順を追い礼を尽くし、折を見て母に事情を説いて理解を得てこそ、自然に事は運ぶ。
人生への示唆 悟
履卦は人生を長い道のりと見、礼をその歩き方とする。力が足りず状況が危ういとき、規矩を守り礼を尽くせば、しばしば危険をかわせる。剛に和やかに応じる方が、力に力でぶつかるよりはるかに効く。吉凶には条件がつきまとう。九四は恐れを知るゆえに吉、九五は位正しく権重いがその剛決ゆえに危うく、六三は身の程を知らずに虎に噛まれる。人と人の間では理屈だけでは足りず、礼がいっそう大切だ。礼を守り抜いて心に溶け込めば、孔子のいう「心の欲する所に従えども矩を踰えず」となる。真の元吉は一歩の見事さではなく、始めから終わりまで貫かれた生にある。